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法隆寺など「斑鳩の里ガイド」のご相談は、斑鳩町観光協会(0745-74-6800)にご相談ください

斑鳩の弥生遺跡

2012-06-23 09:47:00 | 『斑鳩の遺跡と古墳』
斑鳩の里は、聖徳太子・法隆寺・藤ノ木古墳などで有名ですが、町内のこれまでの発掘調査で弥生時代の遺跡が検出されています。西里遺跡に含まれる斑鳩文化財センターの地下にも弥生時代中期の方形周溝募が眠っていますし、法隆寺の北、仏塚古墳周辺の東里遺跡(写真)では、弥生時代中期頃の竪穴住居跡が検出されています。また、服部遺跡では水辺の祭祀で用いられた下部に穴を開けた壷が出土しています。これら遺跡のほか、清水東遺跡・竜田城(竜田陣屋跡)遺跡が検出されていますが、斑鳩全体から見るとまだほんの1部なのでさらに調査範囲を広げると、ビックリするような発見があるかも??・斑鳩はロマンあふれる里ですね。 
 写真 東里遺跡の周辺
天満池から矢田丘陵方面、中央の小屋の左が仏塚古墳、右の方に極楽寺墓地があります。
 <斑鳩の里情報マップ(リンク)をご参照>



竜田城(陣屋)跡

2011-12-11 09:40:00 | 『斑鳩の遺跡と古墳』
 竜田城(陣屋)跡は、斑鳩町の竜田道と竜田川が交わる竜田大橋の南東の一角、竜田川の東岸にあり、規模は東西430m×南北350mの城郭で、片桐且元が竜田川の流れを変えて西の外堀に、北は竜田道を含み、一段低い南側は大和川から大和平野が一望できる戦略的に重要な地域だったと思います。徳川家康がこの地に片桐且元を配置したのは、587年蘇我馬子と聖徳太子が物部守屋を倒して、物部の地盤であった斑鳩に宮や寺を造るに先立ち、竜田川右岸の三室山に物部氏の始祖神である三輪山の神を祀った(斑鳩の伝承)ことに相通じるものがあります。
関が原の戦の後1601年に片桐且元が2万4千余石を拝領して、竜田氏が築いた竜田城(土豪の館か)を踏襲して城(陣屋)を構えたと考えられています。斑鳩バイパス建設に伴う発掘調査では、12世紀末~13世紀初の遺構と共に竜田城(陣屋)時代の屋敷地遺構の一部が確認されています。

 写真 平大池(西~南の内堀)
現在、竜田城跡に残る内堀はこの平太池と東町(どんど)池だけで、西の長池と東の鎌池は埋め立てられて住宅になっています。内堀に囲まれた内郭は130m×120mの方形で、平城形態であったといわれています。

 写真 バイパス工事現場と竜田城(陣屋)跡
平太池の堤の下(南側)をバイパスが通ります。前方の杜は竜田城の鎮守白山神社です。このバイパス工事のあたりで武家屋敷の遺構とか井戸跡が見つかっています。
 写真 『もみじばし』から見た堂山
片桐且元が竜田川を西の外堀にするために、竜田川を堂山の下に付け替えました。正面左が『堂山』で紅葉と桜の名所になっています。
前方の橋は堂山橋、その下流右岸に三室山(標高82m)があります。<情報マップご参照>


中宮寺跡発掘調査

2010-02-22 09:11:00 | 『斑鳩の遺跡と古墳』
中宮寺跡は、聖徳太子建立七ヶ寺の「中宮尼寺」とされ、現中宮寺の東数百mにあり、国史跡に指定されています。 情報マップご参照
今回の13次発掘調査では、三重塔(高さ20m)の心礎と、心柱を立てるための櫓跡(やぐらあと)が見つかりました。
心礎は、基壇下2,5mの位置にあり、花崗岩製で東西約1,75m南北約1,35mの直方体をしており、上面は平らになっています。
櫓跡は、心礎の南側と北側やや西寄で心礎からそれぞれ5mの位置で見つかりました。これらの西側にも1~2本の柱穴があると推測されています。(現未発掘)
櫓の上部に滑車を付けて綱で心柱を礎石の上に立てたと思われます。
 法隆寺の五重塔(31,5m)の心柱は、上下2分割して綱で引き上げたといわれていますが、中宮寺跡のように櫓と滑車を使っていたのではないでしょうか???。
 参考;斑鳩町現地説明会資料
 写真 中宮寺跡三重塔心礎
 写真 櫓の柱跡・白色の筒

史跡中宮寺跡

2009-04-21 12:59:00 | 『斑鳩の遺跡と古墳』
史跡中宮寺跡の第12次 金堂基壇の調査が行われ12日の説明会に行ってきました。
国宝菩薩半跏像と天寿国繡帳で有名な中宮寺は、聖徳太子縁の寺で現在の場所に室町時代末頃移ったといわれています。そのため、創建中宮寺のあった場所を「中宮寺跡」と呼んでいます。(平成13年 国史跡に指定) 情報マップご参照
創建中宮寺は、塔と金堂が一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置が想定され、現在、遺跡のほぼ中央に塔と金堂の基壇部が残されています。
今回の調査の結果、飛鳥時代の基壇版築層が良好に残っていたことや、修復時の瓦積基壇を複数箇所で検出する等成果が得られたそうです。(参考;斑鳩町教育委員会資料)

 写真 金堂基壇東辺部断割り 東から
版築最下層の下にバラス敷きがみられ、基壇築成に伴う排水に関わるものかも?? 
上部の石は、金堂基壇にただ1つ残された礎石です。
 写真 瓦積基壇 北から
昭和38年調査時で見つかったので今回再発掘したそうです。
使用瓦は大半が平瓦で側面を外側に向けた平積みとしていますが、割れて短くなった瓦を多数使用していることから、見た目にはあまり整っているとはいえません。

調子丸古墳

2008-09-02 11:30:00 | 『斑鳩の遺跡と古墳』
調子丸古墳(ちょうしまるこふん)は、駒塚古墳の南約100m水田と民家に挟まれてあります。  情報マップご参照
古墳は裾を削り取られていますが、径約14mの円墳と考えられています。古墳の被葬者は、聖徳太子の黒駒の丁である調子丸だと言われています。数年前の調査では馬の埴輪の頭部が見つかり話題になりました。
この調子丸古墳と駒塚古墳および、宮内庁の冨郷陵墓参考地(聖徳太子の皇子山背大兄皇子の墓所)を直線で結ぶと真北より20度西に振った「聖方位」になっています。
  写真 調子丸古墳