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斑鳩の古墳を歩く

2010-11-29 13:41:00 | 【斑鳩の里】
2010.11.28、ニセ博士3人組による歴史探検ウオーク、今回のテーマは「斑鳩の里」古墳の謎を探るです。
コースは、10時にjr法隆寺駅に集合~斑鳩大塚古墳~藤ノ木古墳(御坊山古墳群)~斑鳩文化財センター~仏塚古墳~瓦塚古墳群~旧中宮寺跡~駒塚古墳~調子丸古墳~上宮遺跡~jr法隆寺駅  19500歩約10kmでした。
斑鳩町は、古代物部系の坂戸氏・山部氏から平郡氏となり587年物部氏が滅ぶと、聖徳太子の上宮王家と膳氏等が斑鳩地域を治めていたと思われます。この斑鳩町内には約70基の古墳があると言われています。その内発掘調査されているのはわずか6基ほどです。      斑鳩文化財センターで特別展の最終日「斑鳩の古墳展」を見て各古墳探索に、被葬者は???、ニセ博士たちの自論が展開されるわけです。(情報マップご参照)
  写真 斑鳩大塚古墳(東から)
直径35m 4世紀末~5世紀初めの円墳 武器武具類と舶載鏡、平郡氏と関係のある首長クラスの墓ではないかと言われています。古墳の周囲はかなり削り取られ、円墳と言われていますが写真の手前一段高くなった畑が前方後円墳の前方部ではないかとの説もあります。
また、古墳近辺には複数の古墳があったとも。古墳の南にあるイザナミノミコト神社の竹薮は古墳の雰囲気があります。
  写真 藤ノ木古墳と御坊山古墳群跡
藤ノ木古墳は直径50mクラスの円墳 6世紀後半の未盗掘、出土品は国宝に指定されています。(文化財センターで出土品レプリカとビデオを常設展示)
2人の被葬者は587年物部氏と蘇我氏の戦争の少し前、蘇我側に殺された穴穂部皇子と宅部皇子が有力と言われています。このとき聖徳太子は14歳前後なので藤ノ木古墳を造っている現場を見ているかも解りませんね。
藤ノ木古墳の後方高台になった団地が、御坊山古墳群のあった丘陵です。御坊山古墳群は、7世紀中頃の古墳で聖徳太子の山背大兄王一族(643年に蘇我側に滅ぼされた)を葬ったとの伝承があります。重要文化財の陶棺(写真)・三彩の円面硯・ガラスの筆・琥珀の枕などが,今回の特別展に橿考研の博物館から里帰りしていました。

  写真 仏塚古墳
法隆寺の北にある6世紀後半の1辺23mの方墳です。被葬者は、聖徳太子縁の膳氏ではないかといわれています。仏塚古墳と藤ノ木古墳は同じ時期の築造です。
羨道を聖達(膳氏の子孫が聖になって古墳を護っていたのでは?ニセ博士の議論)が仏堂として使用していた形跡があり、小さい金銅仏とか灯明皿など多くの出土品があります。
  写真 亙塚古墳群と三井亙窯跡
この古墳群は尾根筋に全長97mと95mの前方後円墳および直径40mの円墳、5世紀初めの古墳群です。家型埴輪・魚・水鳥・土馬など大和小泉の古墳との関係があるといわれています。 また、大和小泉の北方矢田地区には物部氏の始祖と言われるニギハヤヒ伝承が多く残されています。写真左の小屋が亙窯(登り窯)跡で、その上部に古墳群があります。
  写真 駒塚古墳と調子丸古墳
駒塚古墳の前方部は大きく削り取られていますが、全長(現在長)約49m、4世紀後半の前方後円墳です。聖徳太子の愛馬『黒駒』を埋葬した伝承があります。前方部には伴林光平の歌碑が、後円部には宝塔(写真手前の石材)が立っています。調子丸古墳はこの南にあり、聖徳太子の舎人調子丸を埋葬した古墳で、装飾土馬の頭部が出土しています。

  写真 調子丸古墳(南から)
調子丸古墳は径約14mの円墳、5世紀中ごろ、周りが削り取られて原型はありません。
前方の林が駒塚古墳です。


駒塚古墳に行く途中、旧中宮寺跡の発掘現場では、町の発掘などを担当されているÅ氏に発掘現場の説明をしていただき,ニセ博士達も良い勉強になりました。

和爾氏の本拠地を探る

2010-11-08 09:21:00 | 【歴史探検ウオーク】
先月の24日、三バカセによる歴史探検ウオークで、天理参考館特別展「よみがえるヤマトの王墓」-東大寺山古墳と謎の鉄刀ー(11月23日まで)と常設展を見て東大寺山古墳群までウオーク。  コースは、JR奈良駅~JR天理駅~天理参考館~和爾下神社古墳~東大寺山古墳~JR櫟本駅~JR奈良駅 徒歩約15000歩・8kmでした。
 東大寺山古墳から出土した中平銘鉄刀(青銅製環頭太刀3) この太刀は、全体で約3cm内湾しており、棟部に金象嵌で24文字が刻まれています。 銘文の大意は『中平?年5月丙午の日に銘文を入れた刀を製作した。良い鉄を鍛えた刀であるから、天上では神の御意に叶い、下界では災いを避けることができる』と読めるそうです。「中平」は後漢の年号で、西暦184~190年に相当し、卑弥呼の時代に中国で製作されたと考えられています。(天理参考館の特別展図録を参考)
和爾氏は、5代孝昭天皇から15代応神天皇までに20人もの姫たちを、天皇に嫁がせており、ヤマト王権成立に大きく関わった豪族であると思います。
 写真 和爾下神社古墳 全長107m前方後円墳 4世紀末~5世紀初
和爾下神社は、古墳の後円部の上にあり、祭神はスサノオノミコトです。物部氏の武器庫と言われている天理の石上神宮の祭神と同じで、物部と和爾氏の関係をうかがわせます。この古墳の北側が和爾氏の本拠地といわれています。

 写真 東大寺山古墳 全長約140m前方後円墳 4世紀中~後半
写真は後円部の頂上です。この古墳からは銘文の入った鉄刀のほかに多くの武器類が出土しています。