「いくさんのお部屋」つぶやきNo.3

日頃の何気ない日常をつぶやいています。

桜満開

2007-04-10 19:38:34 | レジャー
いつもこの季節に思うことだが、日本人はどうしてこんなにも桜が好きなんだろう。どこもかしもこも桜が満開だ。昨日は昼から時間があったのでカメラ片手に近場の桜の名所を巡ってみた。まずは家の前の公園から。この公園は普段は遊んでいる子どもは少ないのだが、桜に釣られてか子どもが沢山遊んでいた。小さな子どもとお母さんの姿はとても微笑ましい。足の向くまま歩く。車で通り過ぎていた商店街もまた少し様子が変わっている。つぶれたままの本屋さんやお寿司屋さんは、何となく裏寂しい。
途中の公園にも寄る。やっぱり桜に引き寄せられて人が沢山。最初は山越えで岩清水八幡宮を経て、木津川沿いに250本のソメイヨシノが1.4キロ植えられている背割堤に行く予定にしていたが、八幡市のさくら公園に足が向いてしまった。ここでも花見の人たちで大賑わいだ。ここを通り抜けると、目の前に八角堂が見えた。懐かしい。子どもの頃、いつも学校に行く時に通っていた道だ。久しぶりに昔の八幡の中心で小学校へ歩いたこの道を通って八幡市の駅まで行ってみようと思い立つ。
故郷の郷愁がふつふつと湧き出て来た。長い間、どこかに置き去りにしていた記憶が蘇る。いつも、自転車で電話を掛けにここまでお使いに来ていた。通称「はっかくさん」と言っていた雑貨屋さんはそのままのたたずまいだった。ガラス戸の中をのぞいてみたら、商品なのかゴミなのかが散乱している。ここで、グルグル取っ手をまわして交換手に番号を言って繋いでもらう電話で、プロパンガスの注文などしていたことを思い出す。ここまで家から2キロ以上はあるだろう。ほんとうに、暢気な生活をしていたものだ。その隣は、鍛冶屋だった。同級生の同じ名前の女の子がいた。表札は覚えがあるが、建物は新しくなってる。その子のお父さんが,薄暗い土間で火花を散らして仕事をしていたのを思い出す。
つぶれた畳屋さんの看板がそのままになっていたり、訳の判らない宗教の真っ赤な家がまだあったりする。コロッケや牛肉を買いに来ていた肉屋さんの店内には、その頃お兄さんだった人がおじいさんになって、コロッケを揚げていた。会釈をして通り過ぎる。確かコロッケはそのころ6円だったと思う。何だか不思議。
キョロキョロしながら、小学校へたどり着く。全く様変わりしてしまっている小学校と幼稚園。私が通っていたときはお寺のような門と木造の校舎だった。
駅を通り過ぎて、木津川にかかる御幸橋の上からはもう沈みかかった大きなオレンジのお日様と木津川の風景と背割堤の桜が幻想的で美しい。片道1.4キロの桜のトンネルを往復歩く。もう日が暮れかかっていたので人は少ない。見事なソメイヨシノの大木が続いている。今年の桜はここで十分満腹感を味合わせてくれた。
京阪八幡駅のホームから電車に乗る。
写真
http://homepage.mac.com/iku_tsuku/2007/PhotoAlbum52.html

従姉妹

2006-10-15 23:17:30 | レジャー
私には父方の従姉妹が、女性は4名で近くに住んでいる。子供の頃には姉妹のような関係だった時期もある。別々では出会ったりするのだが、大人になってからはそれぞれ生活環境も違っていたりで、疎遠になってしまっている。
少し前に従姉妹の一人と出会ったときに、今度お昼でもみんなで食べにいかないかという話になり、みんなの都合で急に今日に決まった。
ずいぶん久しぶりなのに、親戚っていうだけで何となく近親感を抱くのか、最初から打ち解けてしまう。子供のときも、みんなこんな感じで話したりしていたような錯覚を起こしてしまう。長い間の時の経過も、それぞれの生活も感じさせない不思議な数時間だった。
みんなに共通の人が祖母(おばあちゃん)だというのも、当たり前なのだが今日初めて私は認識した。
食事の後、近くのコスモス畑に行った。そこには私が子供の頃のような、また懐かしい風景。コスモスは10本100円で切り取ってもよい。畑の、竹筒の中にお金を入れる。それも、私が子供の頃に柱に掛っていた貯金箱と同じだった。時々、子供だった弟が小銭を一生懸命出そうとしていたのを思い出す。
コスモス畑の中で無心にコスモスを摘んで、コスモスを抱えて子供のような笑顔だった。
また、このような機会を持つ約束をして別れた。

枚方市穂谷のコスモス畑




御嶽山と開田高原

2006-10-06 00:44:22 | レジャー
夏の御嶽山の高山植物もいいが、八合目の紅葉がとても綺麗らしい。関西からは比較的近いので、母の温泉旅行付きでの山行には持ってこいだ。
最近、母も一人で温泉に残置しておくのも少し心配だと思って躊躇していたら、山には行っていないもう一人の娘が「おばあちゃんに付き合ったげる」といってくれたので、心置きなく御嶽山に登ることが出来た。
温泉は開田高原の「風里」という宿を二泊予約し、私は一泊目は五の池小屋で二泊目に二人に合流。(御岳ロープウェイから八合目~三の池~四の池~継子岳~五尾の池小屋(泊)~お鉢巡り~五の池~八合目~ロープウェイ~開田高原(泊))
この御嶽山のルートも最初にしては、とてもいいコース選択だったと思う。御嶽山をぐるっと周遊したことになった。
ロープウェイに迎えに来てくれた娘に、「開田高原てどんなところ?」と聞いたら「何にもないところ」という。私は「何も無いって…、???」と問い返すと、「何にも無いんや!」と返事。こんな禅問答のような会話をしながら着いてみて意味が飲み込めた。
夕方、娘と散歩していて「なんにも無いって言うけれど、大自然があるやんか!」というと、「たまに来るからええけれど、私にとったら退屈やわ。ここでは暮らせへんわ~」と娘はいう。
そうか~、都会派の娘にとっては田舎は退屈なものなのだ。そういえば私も若かった頃には、やらなければならないことが沢山あり、こんな風景にのんびり浸っている余裕は無かったことを思い出した。
「そうやねぇ~、たまに来るからこういうところも感動するのかもしれへんねぇ~」という私の言葉に、やっと彼女も同意した。山も、たまに来るから感動的な出会いがあるのかもしれない。
しかし、開田高原は何も無くても良いところだったことも事実だった。私たちが泊った「風里」は温泉も料理も良かった。何よりも部屋からの風景も良かった。母も、とても喜んでくれた。
我ながら、良い企画だった。

http://www.kiso-tutaya.com/kazari.html  (風里HP)
http://www.asahi-net.or.jp/~hv4n-ickw/index.htm  (五の池小屋HP)
http://happy.ap.teacup.com/tamachanno/  (tamaのブログ)

開田高原の風景
妻籠宿にて

みんぱく

2006-06-27 23:55:19 | レジャー
「みんぱく」に行ってきた。
大阪の万博で私の記憶に残っているのは、今では岡本太郎の「太陽の塔」と三波春夫の「今日は~、今日は~、世界の国から…」という歌のみ。1970年ということだから、私は20歳。その当時は、行こうと思えば簡単に行けるところに住んでいたが、全く興味がなく行っていない。その頃から、人の沢山集まるところはいやだったようだ。
烏帽子や不動などのクライミングに行くときに、エクスポランドの観覧車や太陽の塔はいつも見ていておなじみの風景でもある。なのに、一度も行っていなかった。考えてみても理由は分からないが、立ち寄ってみようとも思っていなかった。
それが、この民族博物館「みんぱく」で触る展示物が特別展であるから、行ってみようと言うことに朗読関係の友人に誘われた。内容はあまり理解していなかったが、時間があれば誘われたらとにかく断らないのが私の主義でもある。
その特別展は、視覚障害者のための教育教材の展示だった。現在の点字になるまで、視覚障害者の人たちに文字や情報を伝える手段がいろいろ世界中で試行錯誤されてきた歴史がよくわかった。日本でも、明治の頃の点字教材が展示されていた。文字を和紙で浮かび上がらせて触らせるようになっていたり。針で文字の通りに穴があけてあったりしてる物が初期の物だったようだ。
ゴッホの絵や地図も触っても分かるように立体的に出来ていたりしたが、私たち健常者の情報に比べたら、なんとお粗末な情報なんだろうと思える。
私たちの細々とやってる朗読も、その一助にはなっている。少しぐらいは、役に立っているんだなぁ~と思えた。



高野山

2006-06-10 15:33:03 | レジャー
この一週間、また忙しくあっというまに過ぎてしまった。ゆとりがないなぁ~。
そんな中でも、木曜日はホシダ、金曜日は世界遺産「高野山」へ京阪電車の高野山1dayチケットを購入して友人と行ってきた。晴れるかと思っていたが、1日霧雨のような雨が降り続けていた。いい息抜きになった。高野山も奥が深く、いろいろハイキングのルートもあるようだが、今回は奥の院と金剛峰寺(こんごうぶじ)、霊宝館へ行った。お昼は決まりの精進料理。お土産は、ごま豆腐と高野山初めてのモデルコースだった。
南海電車で、難波から極楽橋駅まで行きそこからケーブルで高野山駅へ。そこから霊気が漂って来るように思うのは気のせいか、はたまた天気のせいか…。バスで一橋まで行く。車窓から眺めていると、田舎町という感じだが民家はあまり見当たらず、お寺ばかりが目につく。当たり前か~。
バスを降りると、奥の院へ歴史上の人物のお墓を通り奥の院まで。奥の院は弘法大師の廟。撮影の禁止。ちょうど、お昼時で弘法大師のお食事時間だったようで、小さな木の箱を担いだ二人の坊さんをお年寄りのお坊さんが先導して、みな一応にマスクをして奥の方から歩いてこられた。どんなものを、弘法大師は召し上がるのか、箱の中を覗きたくなった。
バスで中心街の千手院橋まで戻り、お決まりの精進料理定食を食べ、金剛峰寺と霊宝館を拝観してとうとう霧で視界がなくなった幻想的な中をケーブルに乗って帰路についた。
一度は行ってみたかった高野山が、やっと行けた。
今度は、ハイキングのルートを歩いてみたいと思った。

弘法大師伝説
日本各地を回り、驚くような伝説をいくつも残している弘法大師ですが、62歳の時に死期を悟り、高野山の廟(びょう)に籠りました。86年後、とある事情で、絶対に開けない廟の扉を開けてみると、なんと驚いたことに、そこにはまるで生きているかのごとく座禅をくんでいる空海の姿があり、しかも、顔が見えないくらいに髪の毛が伸びていたとか…。
高野山では、今でも弘法大師は廟のなかで座禅姿のまま生き続けていると信じられています。そのため、毎日の食事が変わりなく供えられ、廟に籠ったときに灯されたという火は、1000年以上の歳月を経ても一度も絶やされることなく廟を守り続けているのだそうです。

以下、1dayチケット:高野山のバスも乗り放題の格安だった。
http://www.keihan.co.jp/traffic/otoku/kouya1day06/index.html