今年は春が遅いらしい。
すでに、侘助は咲いていたが、今日やっと一輪斑入りの椿が咲いた。
何だかホットする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/dc/ef4e0dd0d1e7eedc8a1a017cb9dd4a98.jpg)
クリスマスローズも咲き始めた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/a0/97bc6d5cb930518bab6eadb39f734faf.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/15/f9860aec32c35fd71c25eb23fe6e9bb7.jpg)
蕗の薹は、昨年は数個だったが、今年は20個近く収穫できた。
今夜は、天ぷらでもしてみようかな。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/45/5169b30f895e82c9d7ed36e9cf9518f2.jpg)
侘助は、やはり可憐だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/7d/d51c957f73ecce6d795239b637f8a61f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/e1/d1da027c430e6751117e7ba67f041315.jpg)
これから、春本番。
きっと、また我が家の庭も生き生きとしてくるだろう、楽しみだ。
今日、五木寛之の「親鸞」上下「親鸞激動編」上下の4冊を読み終えた。
あっという間に4冊も読んでしまったということは、とても面白かったのだろう。
私は、家が浄土宗、学校が浄土真宗で小さいときから、法然と親鸞は普通の人より身近に感じていたとは思う。普通に念仏を唱えるという環境に居たし。仏教歌も摺り込まれている。だからといって、仏教徒という自覚は全くない。
数年前から仏壇を預かるようになったが、それは簡単に言えば「ご先祖のお家」的な意識しか無かったし、私しか居なかったからというだけだった。
しかし、改めてこの本を読んでみて、自分が今まで生きてきた生き方に知らない間に摺り込まれている部分があったことは否めない。
親鸞の俗物としての悩みにはとても共鳴してしまった。親鸞は私たちとちっとも変わらないではないか。しかし、その俗物な自分に悩みながら、何とかして悟りの境地に至りたいという苦悩が、小説的なストーリーにも関わらず伝わってきた。
親鸞は自らを河原の石ころのような、と称し、私たちと同じ目線で物事を見たところに共鳴させられるのだろう。
上から目線で人のことを見ていないだろうかと。私は残りの人生、ちゃんと生きなくてはと反省! こんな風に思えるのも歳のせいかな?
そして下山期ににさしかかった私は、「下山の思想」五木寛之、を今読んでいる。
すでに、侘助は咲いていたが、今日やっと一輪斑入りの椿が咲いた。
何だかホットする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/dc/ef4e0dd0d1e7eedc8a1a017cb9dd4a98.jpg)
クリスマスローズも咲き始めた。
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蕗の薹は、昨年は数個だったが、今年は20個近く収穫できた。
今夜は、天ぷらでもしてみようかな。
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侘助は、やはり可憐だ。
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これから、春本番。
きっと、また我が家の庭も生き生きとしてくるだろう、楽しみだ。
今日、五木寛之の「親鸞」上下「親鸞激動編」上下の4冊を読み終えた。
あっという間に4冊も読んでしまったということは、とても面白かったのだろう。
私は、家が浄土宗、学校が浄土真宗で小さいときから、法然と親鸞は普通の人より身近に感じていたとは思う。普通に念仏を唱えるという環境に居たし。仏教歌も摺り込まれている。だからといって、仏教徒という自覚は全くない。
数年前から仏壇を預かるようになったが、それは簡単に言えば「ご先祖のお家」的な意識しか無かったし、私しか居なかったからというだけだった。
しかし、改めてこの本を読んでみて、自分が今まで生きてきた生き方に知らない間に摺り込まれている部分があったことは否めない。
親鸞の俗物としての悩みにはとても共鳴してしまった。親鸞は私たちとちっとも変わらないではないか。しかし、その俗物な自分に悩みながら、何とかして悟りの境地に至りたいという苦悩が、小説的なストーリーにも関わらず伝わってきた。
親鸞は自らを河原の石ころのような、と称し、私たちと同じ目線で物事を見たところに共鳴させられるのだろう。
上から目線で人のことを見ていないだろうかと。私は残りの人生、ちゃんと生きなくてはと反省! こんな風に思えるのも歳のせいかな?
そして下山期ににさしかかった私は、「下山の思想」五木寛之、を今読んでいる。