「いくさんのお部屋」つぶやきNo.3

日頃の何気ない日常をつぶやいています。

大阪で雪が積もった

2008-02-09 20:09:55 | 生活
今日は朝から雪が一日降っていた。昨日行ったばかりなのに、急に雪のホシダが見たくなって昼過ぎにピトン小屋に電話してみた。こんな天気なのに4人来ていて登っているという。
行こうかなと思って駐車場で車の雪を払っていたら、帰って来た人がかなり滑って危なかったという。大阪でこんなにたくさん降ることは珍しいので、多分スタッドレスを履いた車は少ないだろう。ということは自分の車が大丈夫でも、他の車が滑ってぶつからないとも限らないと思い、ホシダは中止した。注文していた本を近くのコンビニにとりに行くついでに、雪の降る中を一時間程散歩してきた。
帰ってからもう一度ピトン小屋に電話を入れたら、ホシダ辺りで生駒方面は通行止めになっているという。行かなくて、正解だった。
ここのところ、ホシダ詣でが続いている。昨日も行って来た。銀黒キラキラルートがまだまだテンションの嵐だが、どうしても届かなかったところが届いた。ただそれだけの成果なのに嬉しい。
一緒に登っていたMさんは昨日RPした。Mさんはホシダに来てクライミングを始めて7ヶ月ばかり。私は十年なのに、どうしてこんなに差があるのだろう。でも、普通の人はそんなに簡単には登れないはず。
こんな天気が続くと、どうも岩場に行こうという気力が欠けて来る。せっかくの連休なのに、ホシダ詣でとなりそうである。



最近読んだ本

2008-02-03 10:14:13 | 読書
朗読の録音が終わり一段落して少し時間が出来たので、本屋に行き文庫を数冊買い込み、久しぶりに連続で本を読んだ。
真保裕一著「灰色の北壁」講談社文庫2008年1月16日第1刷発行
玄侑宗久著「中陰の花」文春文庫2005年1月10日第1刷発行
この2冊だ。
どちらも、一気に読んでしまったので、面白かったということだろう。

「灰色の北壁」は新田次郎文学賞を受賞して「『ホワイトアウト』から10年。渾身の山岳ミステリー」と広告文に謳われているが、それほどでも無かったかな?
『黒部の羆』『灰色の北壁』『雪の慰霊碑』の3編で構成されている。
いつも、山岳小説を読むときは、モデルの人がいるのだろうかと思ってしまう。新田次郎の小説は、実在の人がモデルの場合が多い。それが、またリアリティーがあって面白くさせているように思う。
この「灰色の北壁」の中にも実在の人物が登場していて、これは誰がモデルなのだろうかと思い巡らせながら読んでしまった。著者の真保裕一氏は登山をしないで山岳小説を書いているということだが、まるで山を熟知しているような描写には感心した。ついカスール・ベーラをネット検索してしまった。
『黒部の羆』は、富山県警の山岳警備隊を辞めて劔の小屋の主におさまっている主人公が、自分の若かった頃に起こした遭難事故と同じような滑落事故の救助に向かい、山に掛けた男同士のパートナーとの葛藤が描かれている。山は美しくて雄大だが、自然を征服しようという人間の傲慢さを思った。何のために…。
『雪の慰霊碑』は、もう山を借りた恋愛小説でしかない。中途半端な感じがしたなぁ。

玄侑宗久著「中陰の花」を読むきっかけになったのは、朝のNHKのインタビュー番組で「死」「老い」「認知症」について語っていたのを何気なく聞いていて興味を持った。テレビに映っているのは、袈裟をつけたお坊さんだった。れっきとした、禅宗のお坊さんだと言う。
さっそく、近所の本屋で芥川賞を受賞した「中陰の花」と「多生の縁」という対談集が目に留り買って来た。ほんとうは「アミターバ―無量光明」を探したが見つからなかった。「多生の縁」はまだ読んでいない。
「中陰の花」は、確かにいろいろ考えさせられてしまった。子どもの頃から私は、人の死に敏感だった。それは農家の大家族で、人の死に出会う機会が多かったから。仏壇には、名前も知らないご先祖の古い位牌がたくさんあったし、仏間は気色の悪い場所であることは今でも変わらない。
最初に衝撃的な死に出合ったのは、4歳の頃に兄が近くの池で水死したときのこと。今でも、モノクロ写真で切り取ったような記憶で残っている。とても優しい兄でよく遊んでくれた。兄が買ってもらった自転車も、ほとんど私が占拠していたことも覚えている。
保育園に行っていて「兄ちゃんが死んだ」といって近所のお姉さんが自転車で迎えに来たが、その時はまだどういう意味か分っていなかったと思う。足など包帯で巻かれた動かない兄を見た時はとても怖かった。仏間から「おう、おう」と聞こえて来る祖父の泣き声も怖かった。
自宅で死んだ祖父の死の瞬間も、小学3年生の私は隣の部屋で眠れずにいた。今まで、生きていた人がお墓の大きな穴に埋められてしまう。その頃は、土葬だった。子どもの頃は、よく死んだ身近な人がお墓から出て来る夢を見た。死んだ人の夢は今でもよく見るが、それは全く怖くない。
そして家の宗教の浄土宗で、人が死んだときの一連の儀式が四十九日(満中陰)まで一週間ごとに行われる。この法要が満中陰で成仏するためだという意味も、子どもの頃に祖母から教えられていた。
この本の中で「人は死んだらどうなるん?」という、僧侶の妻の疑問は、私の子どもの頃から思っていた疑問でもあった。「極楽や地獄はほんとにあるのん?」という問いに「しらん?」と夫の僧侶は応える。これは、子どもの頃はあると信じていた。人は、死をどのように捉えているのだろうか。
子どもの頃に知らないうちに祖母から教え込まれた教育や学校での宗教教育は、未だに私の中に生きているように思う。死を考える時、それは「死ぬまで生きる」という生きることを考えることだとこのごろは思う。
もう、子どもの頃のような恐怖心は無くなってしまった。それよりも、最近はこれからの生き方の方が気になる。それが、どんな死を迎えるかに深く関わって来るようにも思える。
この著者の、他の本も読んでみたくなった。