6月6日(火)曇
昨日も書いたようにしばらくはビジネス編はお休みにして、充電します。そこでつなぎとしてしばらくはヨットの話をして行きたいと思います。いつもだと歴史的に書いていくのが普通なのですが、今回はヨット賛歌といった印象的な話をして行きます。
僕のヨット人生の中ですばらしい景色とすばらしい人たちとすばらしい料理は欠かすことのできない話です。今日はそのなかからすばらしい人の話その1をしましょう。僕があこがれていたヨットマンに故南波誠氏います。彼はアメリカズカップのチャレンジ艇、日本チャレンジの初代艇長で、多分みなさんはサントリービールのCMでおなじみだった方です。もう10年以上も前の話ですが。
ヨットのマッチレースが初めてTV放映されたのが約20年ぐらい前だったと記憶していますが、当時日本のヨットは世界のレベルには程遠い状況でした。マッチレースと言えばオーストラリアのピーター・ギルモア(後に日本チャレンジの艇長)とかヨーロッパの選手に全然かなわない中で南波さんはいつも日本代表で出てきては負けてました。国内では彼にかなう人はいなかったのですが、なかなか勝てない。多分くやしかったことと思います。
そんな彼との出会いは会社の講演会を僕が企画した時でした。講師を誰にするか迷ったあげくに講師料が安くて僕のあこがれの南波さんにお願いしたのです。講演会場のお客様だけでなく、近隣の大学のヨット部の学生にも話を聞かせるためTV会議装置を設置し、講演していただきました。一般人にとっては、あまり有名人ではなかったのでお客様は100名程度でしたが、彼の話は素朴で自然愛に満ちたいい話でした。もっとも私の上司はお客さんが少ない。もっと著名人を呼ばなきゃだめだと翌年は予算は7倍で「失楽園」のあの人になりました。確かにお客様の数も3倍ぐらいにはなったので上司の言うことはもっともだったのですが、そして話もおもしろかったけど今何も思い出せません。彼の話とあの大きな体に似合わずやさしさに満ちた笑顔は忘れることができません。それ以来電子メールでお互いの状況を交信していました。そしてその翌年の春のことです。彼が出場した香港~沖縄間のレースでファーストフィニッシュした時の様子と写真を電子メールでもらったのが最後になってしまったのです。実はそのレースのあとセールイン大阪と言う鹿児島~大阪のレース中に落水、行方不明となってしまったのです。普通ハーネスと言う命綱をつけているはずなのですがどうもつけていなかったようなのです。日本代表として世界を相手に戦ってきたあの南波氏が、何でもないレースで命を落としてしまうなんて残念でなりませんでした。彼にもらった帽子も大事にかぶっていたのですが、レース中に風で飛ばされて彼の元に帰ってしまいました。
人の命なんてわからないものですが、あんなヨットマンはこれから日本に出てこないような気がします。僕のヨットを始めるきっかけは”太平洋ひとりぼっち”の堀江さんで堀江さんも小柄ですがやさしさと自然を愛する人柄は大好きなのですが、同年代のヨットレーサーと言う意味で南波さんは今でも僕のあこがれの人です。ちょっと若すぎたけど海を愛した男が海で行方不明になったのだから本望だったかもしれません。
今日の話はこれにて終了です。
昨日も書いたようにしばらくはビジネス編はお休みにして、充電します。そこでつなぎとしてしばらくはヨットの話をして行きたいと思います。いつもだと歴史的に書いていくのが普通なのですが、今回はヨット賛歌といった印象的な話をして行きます。
僕のヨット人生の中ですばらしい景色とすばらしい人たちとすばらしい料理は欠かすことのできない話です。今日はそのなかからすばらしい人の話その1をしましょう。僕があこがれていたヨットマンに故南波誠氏います。彼はアメリカズカップのチャレンジ艇、日本チャレンジの初代艇長で、多分みなさんはサントリービールのCMでおなじみだった方です。もう10年以上も前の話ですが。
ヨットのマッチレースが初めてTV放映されたのが約20年ぐらい前だったと記憶していますが、当時日本のヨットは世界のレベルには程遠い状況でした。マッチレースと言えばオーストラリアのピーター・ギルモア(後に日本チャレンジの艇長)とかヨーロッパの選手に全然かなわない中で南波さんはいつも日本代表で出てきては負けてました。国内では彼にかなう人はいなかったのですが、なかなか勝てない。多分くやしかったことと思います。
そんな彼との出会いは会社の講演会を僕が企画した時でした。講師を誰にするか迷ったあげくに講師料が安くて僕のあこがれの南波さんにお願いしたのです。講演会場のお客様だけでなく、近隣の大学のヨット部の学生にも話を聞かせるためTV会議装置を設置し、講演していただきました。一般人にとっては、あまり有名人ではなかったのでお客様は100名程度でしたが、彼の話は素朴で自然愛に満ちたいい話でした。もっとも私の上司はお客さんが少ない。もっと著名人を呼ばなきゃだめだと翌年は予算は7倍で「失楽園」のあの人になりました。確かにお客様の数も3倍ぐらいにはなったので上司の言うことはもっともだったのですが、そして話もおもしろかったけど今何も思い出せません。彼の話とあの大きな体に似合わずやさしさに満ちた笑顔は忘れることができません。それ以来電子メールでお互いの状況を交信していました。そしてその翌年の春のことです。彼が出場した香港~沖縄間のレースでファーストフィニッシュした時の様子と写真を電子メールでもらったのが最後になってしまったのです。実はそのレースのあとセールイン大阪と言う鹿児島~大阪のレース中に落水、行方不明となってしまったのです。普通ハーネスと言う命綱をつけているはずなのですがどうもつけていなかったようなのです。日本代表として世界を相手に戦ってきたあの南波氏が、何でもないレースで命を落としてしまうなんて残念でなりませんでした。彼にもらった帽子も大事にかぶっていたのですが、レース中に風で飛ばされて彼の元に帰ってしまいました。
人の命なんてわからないものですが、あんなヨットマンはこれから日本に出てこないような気がします。僕のヨットを始めるきっかけは”太平洋ひとりぼっち”の堀江さんで堀江さんも小柄ですがやさしさと自然を愛する人柄は大好きなのですが、同年代のヨットレーサーと言う意味で南波さんは今でも僕のあこがれの人です。ちょっと若すぎたけど海を愛した男が海で行方不明になったのだから本望だったかもしれません。
今日の話はこれにて終了です。