10月2日(水)晴
昨日は元いた会社の創立記念パーティ。たくさんの先輩OBの方々と久しぶりの歓談を楽しみました。来年からは経費節減のためOBを招待しないそうですがちょっと寂しい限りです。個人的には目先の経営に捕らわれずプラス思考で考えてほしいものです。
パーティが終わり、少し時間があったので、昔なつかしいオードリー・ヘップバーンの「ティファニーで朝食を」を見てきました。こちらは40年近くも年をとってしまいましたが銀幕の彼女は昔のままの可愛らしさでした。名演小劇場は平日の午後と言うのに同年輩の人たちでほぼ満席でした。我々の年代にとっては日本人なら吉永小百合、西洋ではオードリーはあこがれの存在だったのでしょう。と言う事は僕もごくごく一般的な凡人と言うことです。まぁそれが一番でしょう。
ところで今日は現代人は物の内面を透視する力を失ってしまったのではないだろうか?と言う説に一言。
古代の人は木を見て神を感じ、森を見て神々の住処と考えました。鎌倉時代の名工・運慶は仁王像をノミで作るのではなく、「あの通りの眉や鼻・口が木の中に埋まっているのをノミと槌の力で掘り起こすだけだ」と言ったとか?外見は単なる木であるが、その木が内面に隠し持っているものを感じ取ることができる人が運慶のように優れた彫刻を残すことになる。翻って現代は科学技術によって見えないものは排除し、ナノ単位の微細なところまで見るようになったけれども、そのことによって人間本来の感性とか想像力と言うものを阻害してしまったのかもしれない。
(注)運慶の話は夏目漱石の小説の中の話なので事実かどうかはわかりません。ただ漱石は明治の文明開化の中で木は単なる木と言う物質としてしか見なくなってしまったことを皮肉っているのではないでしょうか?科学技術の進展の中で我々は古代からの人間の持っていた別の能力を失いかけているのかもしれません。