”しんさん”のよもやま話

僕のビジネス感や社会現象に対する意見とかを趣味のヨットやゴルフ等の話を織り交ぜながらよもやま話的に発信します。

しんさんのよもやま話(ウォーキング13-08)その3

2013年10月11日 07時32分49秒 | 趣味

10月11日(金)晴

今日も昨日に続き、山梨・長野百名城めぐり3日目です。
この日は松代城に行き、長野駅で友人と別れ一人名古屋に帰ります。

10月8日(火)晴

戸倉上山田温泉を朝出るとまず小布施におみやげを買いに行きました。小布施堂の栗鹿の子、栗きんつばを買い、少し町内を散策し、一路松代城跡に向かいます。
松代城は武田信玄と上杉謙信との川中島の戦いの舞台となったところです。江戸時代には真田十万石の居城として10代250年近く真田一族が統治しました。
現在は真田邸と合わせ綺麗に整備されていました。



明治まで真田一族が住んでいた真田邸です。真田一族は武田信玄の配下から豊臣秀吉、徳川家康と対立する勢力の中をうまく利用しながら現代まで血縁を絶やさなかったすごい一族だと思います。特に関ヶ原の合戦では兄弟が東軍、西軍に分かれ生き残った訳ですから。写真は真田邸の庭先です。とにかく広い邸宅でした。



松代城跡で今回の百名城めぐりは終わりです。2泊3日で5つの城巡りを終え、長野駅で友人と食事をして彼は茨城に、僕は名古屋に帰ります。夜はいきつけの居酒屋DUOで長野の銘酒「真澄」と「吾一ワイン」を仲間と飲み楽しんだあと疲れがドッとでて翌日はゆっくり休むことになりました。

さてウォーキングが終わったところで明日(12日)はゴルフ、明後日(13日)からは足助ウォーキングでBBQしてきます。意外と忙しい日々ではありますが楽しみが多いことはありがたいことです。


しんさんのよもやま話(ウォーキング13-08)その2

2013年10月10日 21時43分24秒 | 趣味

10月10日(木9晴時々曇

今日は百名城めぐりの第二回です。

10月7日(月)晴
山梨市の川浦温泉「山県館」を出発し、この日は小諸城跡、上田城跡を訪ねます。朝8時半に川浦を発ち3時間近くかけて小諸城跡、懐古園にやってきました。小諸は仙石秀久の入城により現在の城下町の原形ができたと言われています。



小諸城は城下町より低い穴城で、石垣を高く積み上げた特徴的な城でした。



小諸は島崎藤村の千曲川旅情の旅でも有名な「小諸なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ」と歌われたあこがれの城でしたが、思ったより奇っ怪な城です。ただ千曲川を見下ろす丘には藤村の歌碑があり、ここだけはちょっといい雰囲気でした。



小諸の次は徳川軍を二度も苦しめた真田昌幸の上田城に行きます。当時の上田城は関ヶ原の合戦で西軍が敗れると徳川軍により破却され堀も埋められてしまいますが、小諸から移った仙石忠政により現在の姿に再建されます。その前までは真田昌幸の嫡男真田信之が入城しますが城の改修も許されませんでした。それでも煤と柿渋で防水した下見板張りのの黒い壁や真田石の石垣は真田昌幸の時代のまま現存しています。



上田城の本丸は真田神社となっていますが、櫓は当時を再現されており、美しい城跡でした。この写真は二の丸跡から上田城の全景を撮影したものです。中々良いでしょ!



上田城を後にこの日の宿、戸倉上山田温泉に向かいました。戸倉上山田温泉ははっきり言って川浦温泉に比べるとあまり良かったとは言えませんでした。特にじいさん、ばあさんの団体ばかりで温泉の長湯をする人ばかりでとても温泉にゆっくり浸かることができません。
さて翌日最終日はは長野、松代城に行くことになりますがこの続きはまた次回に。


しんさんのよもやま話(ウォーキング13-08)その1

2013年10月09日 11時46分02秒 | 趣味

10月9日(水)

ご無沙汰でした。先週末より山梨、長野の百名城めぐりをして昨日名古屋に戻ってきました。今回はウォーキングと言うよりは1000Kmを超えるドライブ旅行でした。

10月5日(土)曇時々雨

この日は静岡の田舎に行き、母の様子を見ながら、畑の手入れをしました。と言っても小雨が降っていましたので白菜、大根、玉ねぎの種からしっかり芽が出たことを確認するにとどまりました。間引きにはちょっと早いようなので次回田舎に行くときにすることにしました。時期遅れの大きなスイカができていたので一応車に積んで昨日名古屋に持ってきました。色は良かったのですが少々水っぽい味です。ただ持ち運びは大きくて重かったので夏の汚名挽回まではできなかったのが残念です。

10月6日(日)晴

午前中に御殿場を発ち、2時間ほどかけて甲府駅で茨城の友人と待ち合わせ。甲府城跡はJR甲府駅のすぐそばなので友人の荷物を車に入れて、二人で甲府城跡に行き、今回一つ目の百名城スタンプをゲット。甲府城は家康の所領になってからの城なので山城と違い交通の便の良いところに作られた比較的平坦な城でした。





次いで武田信玄の居城であった武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡)に行きます。ここは現在武田神社になっており、あまり城跡と言うより神社そのものという感じです。ここで二つ目の百名城スタンプをゲット。






この日は山梨市にある信玄公の隠し湯だったと言われる川浦温泉で一泊。翌日から小諸方面とは逆方向でしたが、最高に良い温泉でした。山縣館と言う約500年前、武田12将の一人が開湯し、現在15代目当主が経営する宿に泊まりました。41℃のPH9.6のアリカリ性で源泉掛け流しの温泉は手入れが行き届いたすばらしい温泉です。特に笛吹川の川原の横にある岩風呂は川のせせらぎの音を聞きながらゆったり湯に浸かる何とも言えない風情があります。



長くなってしまったのでこの続きはまたの機会にします。


 


しんさんのよもやま話

2013年10月04日 19時26分56秒 | Weblog

10月4日(金)晴

明日から静岡の田舎に行き、日曜は甲府、月曜は小諸、上田経由で長野に行ってきます。日本百名城を巡る旅です。城巡りをするためには事前にその歴史を調べてから出かける訳ですが、今回のように一度にたくさんの城を巡る時は大変です。なんとかメモは作りましたが、A4用紙に清書するほど時間がありません。こちらはまた帰ってからまとめなくてはならなくなりそうです。
そんな調べ物をしていると、気になって気になって、しかたなく更に詳しく調べたりすることが多いため、単に城の概説を読むだけではすみません。今回も小諸の城下を築いた仙石秀久と言う人物に興味を持ちずいぶん時間を費やしました。何が気になったかと言うと小諸五万石の大名に返り咲いたと言う解説文でした。彼は信長に認められ、秀吉の最古参の部下となり、数々の戦功をあげ、讃岐高松十万石の大名にまで出世するのですが、秀吉の命により、島津との戦いで待機命令を聞かずに攻め入り大敗を喫します。しかも仲間の武将はほとんど討ち死にするなか、さっさと高松に逃げ帰り秀吉の怒りを買うことになる訳です。その間の事情はまぁいろいろあるのですが、とにかく秀吉の怒りから高松城を没収、吉野に追放されます。ところが秀吉の小田原攻めの時、家康の軍勢に加えてもらい、出身の美濃の強者数人を引き連れて、無印の旗印で先陣をきって山中城陥落に貢献します。山中城は北条氏の西への守りを固める堅固な城でしたが、豊臣・徳川軍7万に攻められ一晩で陥落した悲劇の城です。それはともかく仙石秀久は家康のとりなしで秀吉に目通りを許され、小諸5万石に返り咲くことになる訳です。
その後仙石家は真田氏が松代転封に伴い上田城主となります。戦国武将の中には意地や義理を重んじたために滅んでしまった者と信長、秀吉、家康に認められ江戸時代まで家督を繋いだ者と両極端が存在する訳です。前者には浅井長政などが典型的ですが後者には意外とたくさんの武将がおります。加賀の前田利家、伊賀の藤堂高虎、小諸の仙石秀久、上田の真田信之、等々。
という訳で今日は城を調べて行くと歴史の繋がりがよくわかると言う話でした。また長くなってしまいました。あしからず。
ではしばらくお休みします。スマホで時間があれば挑戦してみますが・・・。


しんさんのよもやま話

2013年10月02日 11時52分24秒 | Weblog

10月2日(水)晴

昨日は元いた会社の創立記念パーティ。たくさんの先輩OBの方々と久しぶりの歓談を楽しみました。来年からは経費節減のためOBを招待しないそうですがちょっと寂しい限りです。個人的には目先の経営に捕らわれずプラス思考で考えてほしいものです。

パーティが終わり、少し時間があったので、昔なつかしいオードリー・ヘップバーンの「ティファニーで朝食を」を見てきました。こちらは40年近くも年をとってしまいましたが銀幕の彼女は昔のままの可愛らしさでした。名演小劇場は平日の午後と言うのに同年輩の人たちでほぼ満席でした。我々の年代にとっては日本人なら吉永小百合、西洋ではオードリーはあこがれの存在だったのでしょう。と言う事は僕もごくごく一般的な凡人と言うことです。まぁそれが一番でしょう。



ところで今日は現代人は物の内面を透視する力を失ってしまったのではないだろうか?と言う説に一言。
古代の人は木を見て神を感じ、森を見て神々の住処と考えました。鎌倉時代の名工・運慶は仁王像をノミで作るのではなく、「あの通りの眉や鼻・口が木の中に埋まっているのをノミと槌の力で掘り起こすだけだ」と言ったとか?外見は単なる木であるが、その木が内面に隠し持っているものを感じ取ることができる人が運慶のように優れた彫刻を残すことになる。翻って現代は科学技術によって見えないものは排除し、ナノ単位の微細なところまで見るようになったけれども、そのことによって人間本来の感性とか想像力と言うものを阻害してしまったのかもしれない。

(注)運慶の話は夏目漱石の小説の中の話なので事実かどうかはわかりません。ただ漱石は明治の文明開化の中で木は単なる木と言う物質としてしか見なくなってしまったことを皮肉っているのではないでしょうか?科学技術の進展の中で我々は古代からの人間の持っていた別の能力を失いかけているのかもしれません。