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智恵子抄

2023年08月17日 11時03分06秒 | 文化と芸能
智恵子抄

高村光太郎


レモン哀歌



7・23・2022

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ


トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした

あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉(のど)に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた

それからひと時
昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう

昭和一四・二

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変な矛盾したことを言ってる」昭和天皇の抵抗を押し切り宮中に“送り込まれた”のは…側近が知る天皇の“本音と愚痴”

2023年08月17日 08時03分07秒 | 歴史的なできごと

「変な矛盾したことを言ってる」昭和天皇の抵抗を押し切り宮中に“送り込まれた”のは…側近が知る天皇の“本音と愚痴” (msn.com) 




文春オンライン
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「変な矛盾したことを言ってる」昭和天皇の抵抗を押し切り宮中に“送り込まれた”のは…側近が知る天皇の“本音と愚痴”
河西 秀哉 によるストーリー •
1 時間


 元銀行家で民間から“改革”のために初代宮内庁長官に就任した田島道治氏。敗戦後の1948年から1953年まで昭和天皇に仕えた。手帳や日記帳、「マル秘」と書かれたノートなどには、昭和天皇の発言や二人のやり取りが詳細かつ膨大に記されていた。この夏、貴重な史料が全7巻の『昭和天皇拝謁記』(岩波書店)として完結。編集委員をつとめた名古屋大学大学院人文学研究科准教授の河西秀哉氏が、読みどころを深掘りする。(全2回の1回目/ 後編 に続く)


昭和天皇 ©JMPA
昭和天皇 ©JMPA
© 文春オンライン
◆ ◆ ◆
宮中改革のために派遣された人物
 1948年6月5日、宮内府長官に田島道治が任命された。彼は芦田均首相から長官として送り込まれてきた人物であった。日本国憲法によって象徴となった天皇制を実質化するため、「旧憲法的感覚」を有した天皇側近を一掃することが片山哲前内閣から課題となっていた。そこで、GHQの宮内府の機構縮小要求(それを踏まえ、宮内府は1949年6月に総理府の外局としての宮内庁と改称される)を背景に、芦田は田島を長官にする人事案を天皇の抵抗にもかかわらず押し切った。田島は宮中を改革するために派遣された人物だったのである。


 田島は元々銀行家で、長く民間におり、宮中の経験はなかった。その彼が、日記とは別に天皇と拝謁(面会)した時の会話を詳細に記録した「拝謁記」を残している。それは、長官となって約8ヶ月後の1949年2月3日から、長官として最後の拝謁となる1953年12月16日までの内容が、会話調で記されている。昭和天皇の発言がここまで詳細かつ膨大に記された史料はこれまでにない。「拝謁記」は『昭和天皇拝謁記』として岩波書店から出版された(第一巻~第五巻が「拝謁記」、第六巻がその時期の日記、第七巻が田島宛書簡や書類など)。


 その「拝謁記」であるが、始まった翌日の1949年2月4日に次のような記述がある。


〈〈昨日の七十五才の人の退位請願は、先年海水の写真を見ての投書ありしが、それと類似のことで(御軫念の様子恐縮)御退位問題は現在問題残り居らず、何等此際実際問題にあらざれど、一部に真面目にかゝる問題を考える有識者あることは事実であります、と御参考の為めにと思ひ申上げし所、其辺御了承相成る。〉〉


 どうも、ある老人から退位請願が宮内府に寄せられた。田島は「御参考」のためにそれを天皇に報告したのである。( )のなかは田島の感想であるが、「御軫念の様子」とは天皇がそれに対して心配している様子を示している。


 これに対して、2月10日の拝謁の時、天皇は「七十五才の退位希望の書面は全部読んだが、腑に落ちない事がある」と話を切り出した。天皇が一国民の請願の書面を読んだというのは興味深い。まさに、その書面の内容を心配していたからだろう。


「腑に落ちない」愚痴をこぼした昭和天皇
 では、何が「腑に落ちない」のか。天皇は「宣戦の詔で朕が志ならんやといつてることなど少しも読み分けてはくれない」と田島に述べた。それは、1941年12月8日の対英米開戦(アジア・太平洋戦争)の宣戦の詔勅においてその文言が入っていることを、この老人はわかっていないと言いたかったのである。「朕が志ならんや」とは、私の意思はそこではないが、という意味である。


 つまり、開戦を命令した宣戦の詔勅であるが、本当は平和裡に解決して欲しいけれどもやむなく開戦に至ったのであるという文言こそ、自分の意思なのだと天皇は強調していた。それも理解せずに自分の退位を請願するような老人の主張はおかしいと田島に愚痴をこぼしたのである。


 しかし田島は、天皇の命令が下されたならば必ず謹んで従う(つまり戦争をすることが当然と受け止める)し、そもそも「朕が志ならんや」は日清・日露戦争の宣戦の詔勅でもあった常套句で、そうは受け止めないのが普通であると答えた。このあたり、民間出身の田島らしい返答でもあろう。必ずしも昭和天皇におもねるような答えを返すのではなく、正直に思うことを述べたのである。


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昭和天皇は「変な矛盾した事をいつてる」
 これに対して、天皇は「ソーか」と答えつつ、「あれには変な矛盾した事をいつてる」とさらに続けた。田島はそれには「大体あの様の意見を持ちましても、大抵の普通の人は敢て宮内省や陛下に書面を出すものはありませぬ。出す人は何れ多少エクセントリツクでございます」と述べた。つまり、心配する必要はないと天皇を慰めたのである。このあたりのバランスが田島は見事だった。


 その後、天皇と田島は「拝謁記」に見られるように、様々な会話を展開していくことになるが、天皇にとって田島が芦田首相から送り込まれてきた人物であっても、時には自身に賛同し、時には反対や批判もするような、それまでの宮中にはいない信頼できる人物だったからこそ、彼を信頼したのではないかと思われる。


なぜ昭和天皇はそこまで退位について心配していたのか
 ところで、なぜ天皇はそこまで退位について心配していたのだろうか。敗戦直前から戦争責任をめぐって、宮中や日本国内外では天皇退位論がたびたび展開された。特に、1948年には東京裁判結審と関連し、天皇の戦争責任や退位を求める動きが高まっていた。しかし天皇は、「苦労をしても責任上日本の再建に寄与することが責任を尽す途だと考へてゐられる如く見える」(『芦田均日記』1948年8月29日条)と田島が芦田首相に報告したように、むしろ在位し続けることで責任を全うしようと考えていた。天皇はこの年の11月12日、GHQのマッカーサー最高司令官に留任の意思表示を示し、退位問題に終止符を打った。とはいえ、本当はこの機会に人々に対して所信を表明しようと天皇は考えていたが、宮内府内でそれに対する批判も出、結局出すことはなかった。


 おそらくこうした状況があったため、昭和天皇には自分が在位し続けている理由を人々に知ってほしいという思いがあり、退位論は彼にとって切実な問題だったのではないか。


まさかの昭和天皇の答えに大泣き
 その後、天皇は皇太子外遊を進めてほしいとの話を1949年11月28日に田島へ持ち出した。ただ、田島はなぜ天皇が「比較的早い時期」での皇太子外遊を言い出したのか疑問であったため、12月19日の拝謁でそれに対して質問する。そうしたところ、天皇から次のような返答があった。私は、『昭和天皇拝謁記』第一巻のなかで、ここがもっとも劇的な場面だと思う。


〈〈陛下は、講和が訂結された時に又退位等の論が出ていろいろの情勢が許せば退位とか譲位とかいふことも考へらるゝので、その為には東宮ちやんが早く洋行するのがよいのではないかと思つたとの仰せにて、田島は感激して落涙滂沱、声も出でずしばしば発言し得ず〉〉


 田島はまさかの天皇の答えに、大泣きしてしまったのである。それは、皇太子外遊を天皇が急がせた理由が、講和独立にともなって退位論が再燃すれば、自分の退位が実現する可能性もある、そうなれば皇太子は即位することになるため外国へ行くのも難しくなる、その前に外遊をしなければならない。そう天皇は考え、田島に「比較的早い時期」の皇太子外遊実現を求めたからであった。これは田島にとって想定外の天皇の返答であった。先に述べたように、GHQと宮中とのあいだでは退位論はすでに前年に決着していた。だからこそ、この時の天皇が退位を意識していたことを田島も予見していなかったのである。それゆえ、天皇の返答を聞いた田島は泣いてしまった。


 この後、田島は天皇に「只今の如き全く陛下御自らの御言葉を適当の時に御発し願ふことは誠にうれしい悲しいことに存じます」と述べ、天皇が自らの気持ちを「おことば」にして発することを提案する。天皇自身、自分の思いが人々に伝わっていないことに対してもどかしい思いを持っていたことは、先の退位の請願の時にも述べた。その意味で、田島の提案は天皇にとっても願ってもないものだったのではないか。


昭和天皇はなぜ田島を信頼したのか?
 この間の田島は、〈こみ上げる感涙にてとぎれとぎれに多少興奮感激強く、なきじやくり等して言葉途切れ勝ちになりしも申上げ、一応切りとなりてとても「おえつ」はげしく、取乱し恐れ入る斗り〉という様子だったようである。それだけ天皇が責任を感じて退位を考えているということは想定外だったのだろう。天皇はその田島の様子を見て「少し御感慨の御様子らしく想像せられたり」と田島は書いており、天皇にとっても田島の反応は予想外だったのではないか。この日の拝謁は、二人の信頼関係がより強固になった機会になったと思われる。


 以上のように、天皇はなんらかの戦争責任を感じ、それゆえに在位し続けた。しかし、戦後にそうした思いを持ち続けていること、開戦時にもそれに対して疑義を持っていたことが人々に伝わっていないことに、もどかしさを感じていた。そして、やはりどこかで戦争責任から自身が退位を迫られる可能性があることも想定していた。そうした天皇の複雑な思いが『昭和天皇拝謁記』から伝わってくるのである。


( 後編 に続く)


〈 「この部屋の中だけのお話でございます」昭和天皇の“過激な一言”…秘録に残る“戦争の悔恨”と“多くの人々への批判” 〉へ続く











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