「東大合格」はいくらで買える?アンケートで見えてきた東大入学までの金額 (msn.com)
わが子を東大生にするために、いくらの出費が必要か。受験に頭を悩ませる首都圏では喉から手が出るほど欲される情報だろう。
そもそも、どこから東大受験と定義するかも難しい。わが子を東大に入れるために一番手っ取り早いのは、開成中学や灘中学、桜蔭中学などの名門私立中高一貫校に入学させることだ。これによって、高い東大合格率を誇る名門校の指導が受けられるし、東大医学部専門塾の鉄緑会に優先的に通わせることが可能になるからだ。
ただ、そのためには少なくとも小学校4年生の段階から受験の準備をする必要がある。中学偏差値71(四谷大塚調べ)は伊達ではない。たった1年や2年詰め込んだだけでは到底、太刀打ちできない。
少なくとも、小学校4年生の段階で、塾の進学クラスで好成績を収める必要がある。すると、さらに遡って、小学校入学時からの通塾も検討事案になるだろう。これらが東大合格の値段をわかりにくくしている。
筆者は、東大生100人にアンケートをとり、「東大合格までにいくらの資金投資が行われたか」を調査した。塾に通っていたか、なんという名前の塾か、塾以外の習い事はしていたか、特待生待遇を受けていたか…果ては東大生の親の年収の平均は、学歴は、など考えうる限りすべての教育に関わる要因を質問している。
今回は、そのアンケートから見えてきた「東大合格を買えるリアルな値段」についてお伝えする。
東大合格を買えるリアルな値段は?
結論から言えば、東大合格には1,380万円が少なくとも必要との結論に達した。これは、子供の才能を過信しないうえでの想定だ。
たしかに、才能あふれる子ならば、自学自習だけで県内トップの高校に進み、そこから塾なしで東大に合格するケースもある。だが、ここではそういったイレギュラーを扱わない。小学校4年生から塾に通いつめて、無理やりにでも東大に入れるケースを考えている。ちなみに、「少なくとも小学4年生時点で進学塾の特進クラスに入れる」想定であるから、その時点での学力に不安が想定されるならば、プラスで500万円程度はかかる可能性がある。
内訳は、小学校で300万円、中学校で500万円、高校で580万円。進学ルートは次の通りだ。
まず小学校は公立で、4年生から塾に通い、名門私立中高一貫校に入学する。中学校に入学したら鉄緑会に入会し、中学3年生までに高校履修範囲のすべてを修了する。高校に入っても鉄緑会を継続して、3年間勉強を続ける。すると、だいたいこれくらいの金額になってしまう。
このルートは「理想」の進み方をした場合だ。実際には学校や塾の勉強についていけずに補習用の塾に入ったり、家庭教師を雇ったりするケースもあるし、勉強以外の習い事(ピアノや水泳など)をさせればさらに出費は増えていく。
つまり、子供に受験勉強だけをさせる人生を歩ませるならば、1,380万円の出費と引き換えに、東大合格ガチャが回せるのだ。アタリの確率は50%。これは「鉄緑会の東大現役合格率が約50%」とする説に則っている。
東大生の親の年収は?
10歳から18歳までの9年間で1,380万円の出費。実際には傾斜がかかるが、平均をとれば年間150万円以上の教育投資を行う計算になる。月当たりにすれば12万5,000円。これだけの金額を支払う余裕があれば、無理やりにでもあなたの子供を東大に合格させられる可能性が出てくる。
では、その投資を可能にするだけの原資が東大生の世帯にはあるのだろうか。2021年に実施された東京大学の学生生活実態調査では、以下のような年収分布になっている。
(n=1,510)
450万円未満:10.8%
450万円以上750万円未満:11.2%
750万円以上950万円未満:13.2%
950万円以上1,050万円未満:10.2%
1,050万円以上1,250万円未満:12.1%
1,250万円以上:18.6%
わからない:24%
わからないと回答した24%を除いた、76%のうちの45.4%もの家庭、すなわち半数以上が世帯年収950万円を超えている。2022年に厚生労働省から発表された「国民生活基礎調査の概況」によれば、2021年時点での全国の世帯年収の平均値は545.7万円。また、総務省が2019年に行った「全国家計構造調査」によれば、47都道府県のうちで一番世帯年収の平均が高いのは東京都で、その金額は629.7万円。
すなわち、東京大学に通っている学生の親は、その大半が全国平均のおよそ2倍、世帯年収平均額が一番高い東京に絞っても、その1.5倍以上の収入を得ていることがわかる。比較的裕福な世帯が多いことは間違いがないだろう。
また、東大生の親の学歴についても調査を行った。一般的には中卒よりも高卒が、それよりも大卒の年収が高くなる傾向にあるが、今回とったデータでは、ほとんどの学生が両親ともに4大卒と回答した。ついで多かったのは、父が四大卒であり、母が短大卒であるケース。具体的な大学名についてはプライバシーの観点から伏せるが、いわゆるGMARCH、早慶上智、旧帝国大学と呼ばれる大学群出身者の割合が多く、ほとんどの父親は有名大出身者であった。
これらを総合すると、「有名四大卒の父親(母親)が、豊富な収入と自らの成功体験から自身の子供にも同じルートを歩ませるために、ふんだんな教育投資を行い、教育を通じた社会階層の再生産がおこなわれている」シナリオが見えてくる。
ここでは習い事のみを教育投資としていたが、実際は「地域のプログラミング教室」や「年に何回かある数泊する家族旅行」などの体験が原資となって、好奇心を育んでいるとする見方もある。実際、筆者が東大で付き合った人間の中には、年に数回以上海外旅行に行ってスラムや貧困街の実態を視察したり、海外から貴重な動植物を個人で輸入して生物に関する知識を深めたりして、大学の推薦入試に合格した人もいた。
何をもって教育投資とするかは難しいが、岡山大学准教授の中山芳一氏によれば「子供がやりたいことを後押ししてあげることが大事」だという。好奇心の目覚めの時期に、自主性を後押ししてくれるような親のはたらきかけがあったかどうかは、重要なファクターになっているのかもしれない。
日本の裁判官はなぜ無罪判決を書けないのか/木谷明氏(弁護士・元裁判官)
3/18(土) 20:07配信
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>検察が圧倒的に優位な司法制度と、本来であればその司法をチェックするはずのメディアが、逆にその制度の走狗となって世論を誘導する中、仮に検察立証に疑いがあったとしても、裁判官にとって無罪判決を書くことには計り知れない勇気と能力と責任感、そして使命感が求められる。
今週の月曜日(3月13日)、57年前に逮捕され43年前に死刑が確定していた袴田巌氏の再審決定が下された。まだ高検が最高裁に特別抗告を行う可能性は残っているが、再審そして無罪は確定的と見ていいだろう。確定死刑囚の再審無罪となると島田事件(1989年に再審無罪が確定)以来戦後5件目となる。
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それにしてもだ、事件直後に逮捕された袴田氏に対して、警察と検察は来る日も来る日も長時間の厳しい取り調べを行い、袴田氏はまともにトイレにも行かせてもらえなかったという。日本の刑事裁判でそのような拷問同然の環境下に3週間も置かれた末の自白に基づいて有罪が確定してしまうのは、裁判所がそれを有効な証拠として認めているからだ。
逆に欧米諸国の刑事事件で被疑者の起訴前勾留期間が最長でも2~3日と短いのは、それ以上勾留した後で得られた自白は被疑者側から「拷問があった」と主張され、裁判所もそれを認めるため証拠として使えないからに他ならない。袴田氏の裁判で末席の裁判官を務めた熊本典道氏(故人)は晩年、袴田さんは無罪であるとの心証を得ていたが他の裁判官の意見に抗えずに有罪判決に迎合してしまったことを悔やみ、謝罪している。
裁判官時代に日本の裁判官としては異例中の異例とも言うべき30件以上の無罪判決を出したことで知られる木谷明弁護士は、日本の裁判官が無罪判決を出したがらない理由として、まず第一に無罪判決を書くのが大変だからだと証言する。裁判というのは検察の犯罪立証に対して「合理的な疑いを差し挟む余地」があれば無罪とするのが近代裁判の要諦だ。そのため裁判官が無罪判決を出すためには、検察の犯罪立証のどこに「合理的な疑いを差し挟む余地」があるかを明確に書かなければならない。その論拠が甘ければ、仮に一審で無罪となっても、検察に控訴され、二審では確実に逆転有罪となってしまう。有罪判決は容易だが無罪判決は裁判官の能力が試されるのだという。
誰しも楽をしたいと考えるのが人情だ。裁判官にとっては検察の言い分をそのまま受け入れ有罪としてしまった方が、仕事が遙かに楽になるというのが、多くの裁判官の本音なのではないかと木谷氏は言う。 また、木谷氏は検察の権限が強すぎることも、裁判官が検察の主張に引きずられやすいと同時に、冤罪を生む温床となっていると指摘する。
日本では2021年には、裁判が確定した21万3,315人のうち、無罪判決を受けたのは94人のみで、割合にして0.04%だ。つまり1万件につき4件しか無罪にはならないのが日本の刑事裁判なのだ。確かに99.9%以上の有罪率というのは異常としかいいようがないが、実はこの数字には隠されたマジックがある。
確かに日本では起訴されたら99.9%の可能性で有罪となるが、実は警察から送検されてきた事件のうち3分の2(64.2%)は検察によって不起訴や起訴猶予処分にされ、実際は裁判にはなっていない。
つまり、検察は警察から送られてきた事件のうちほぼ確実に有罪にできる全体の3分の1ほどの事件だけを起訴し、それがほぼ100%に近い確率で有罪となっているということなのだ。このように公訴権を独占していることも検察の権限が強すぎる一つの要素となっている。
しかし、このことが逆に検察にとっては大きなプレッシャーともなり得る。なぜならば、検察は事件を厳選し有罪にできる事件しか起訴していないのだから、いざ起訴した事件は必ず有罪にしなければならないことになる。しかし、人間なので必ずミスは起きる。最初の見立てが間違っていたことに後で気づくこともあるだろう。
しかし、一度起訴してしまった以上、何が何でも有罪にしなければならない。刑事事件、とりわけ社会から注目される刑事事件で起訴をしておきながら無罪になどなってしまえば検察の信用はまる潰れだ。担当検事やその上司の経歴にも大きな傷を付けることになる。そうした中で冤罪が起きる。酷いケースでは自白の強要が行われ、時として証拠の捏造まで起きていたことが、近年明らかになっている。
検察が圧倒的に優位な司法制度と、本来であればその司法をチェックするはずのメディアが、逆にその制度の走狗となって世論を誘導する中、仮に検察立証に疑いがあったとしても、裁判官にとって無罪判決を書くことには計り知れない勇気と能力と責任感、そして使命感が求められる。そもそも裁判官が有罪判決は気楽に書けるが、無罪判決を書くには覚悟が必要な制度自体が倒錯した制度と言わなければならないが、それ自体が日本の司法制度の異常さと歪みを象徴していると言っていいだろう。
伝説の無罪裁判官として法曹界の尊敬を一手に集める木谷明氏と、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。