ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

定家『明月記』の物語 書き留められた中世

2023-12-02 21:23:11 | 小説

 

定家『明月記』の物語

書き留められた中世

稲村榮一 著

ミネルヴァ書房

2019年11月30日 初版第1刷発行

 

はしがき

明月記は同時代の方丈記や平家物語に比べて、視野が広い。

定家は時代の全体を見聞き出来る好位置にいたからであろう。

 

序『明月記』天変八百年

日記の大部分を占める典礼・作法と合わせて、書き留められた身辺の事や世事の伝聞記事が時代を語る面白さは、現代においても興味を誘ってやまない。

 

茶の湯の盛行と、それに伴う定家筆跡の異常なまでの需要がおこる。

 

古書が長い歳月に耐えたのは、和紙に墨書した文書という点も注目すべき

文書修復の人たちは「和紙千年、洋紙百年」という。

 

1 俊成の五条京極亭焼亡 洛中の火災頻々

 

2 俊成と子女たち 一夫多妻時代

一夫多妻の場合、異母同父の兄弟は比較的疎遠に見えるが、異父同母の兄弟は親しいらしく、年賀などには母のもとに集まったりする。

 

3 世界が驚いた天文記録 大流星・超新星

定家19歳の9月、大流星の記録

 

定家69歳の時、奇星を見る。それをきっかけに過去の客星の出現例を天文博士に問い合わせる。

その八例の中に、176年前に(1054)起きたカニ星雲の爆発の記録があり、天文学者に注目される。

 

オーロラを見た記録かと思えるものがある。

1200年頃は、地磁気の軸が今よりも日本側に傾いていて、日本においてもオーロラが観測できやすかったと考えられる。

 

4 紅旗征戎は吾が事にあらず 乱世の軽視

 

5 高倉院崩御 末代の賢王を慕う

 

6 剛毅の女房の生涯 健御前の『たまきはる』

健御前は定家の五歳上の姉、強烈な個性を持ち、四人の女院等に仕えた生涯だった。

『たまきはる』は日記というよりも宮仕のあり方を教えた著作

 

7 九条家四代に仕える 浮沈を共にする主家

 

8 定家の家族と居宅 西園寺家との縁組

 

9 荘園経営の苦労 横領・地頭・経済生活

 

10 式子内親王と定家 「定家葛」の伝説を生む

 

11 後鳥羽院と定家 緊張した君臣関係

 

12 熊野御幸に供奉 山岳重畳、心身無きがごとし

定家40歳の10月、後鳥羽院の熊野御幸に供奉した。

 

13 官位昇進に奔走 追従・賄賂・買官・婚姻

 

14 日記は故実・作法の記録 殿上人の日々

 

15 禁忌・習俗 穢を忌む

 

16 南都・北嶺 紛争止まぬ武闘集団

「南都・北嶺」は奈良の興福寺と比叡山延暦寺を併称した言い方であるが、この当時は強訴・闘乱を繰り返す僧兵の拠点という印象が強い

 

17 救いを求めて 専修念仏・反念仏・造仏・写経

後白河院は熱狂的な歌謡好きで、遊女・白拍子を問わず歌の名手を召しては歌わせ、自らも喉から血が出るほどに歌ったと言われる方である。

 

18 「至孝の子」為家 後鳥羽院の寵・承久の乱前夜

為家は蹴鞠にはまり込む。天皇・院両主が観覧される。

蹴鞠は後鳥羽院時代に特に朝廷や公家で盛んになった遊戯で、鞠壷(蹴鞠のコート)の中で、八人が鞠を地に落とさないように蹴り上げ、受け渡し続けて千回を目指す。

 

19 承久の乱 「武者の世」成る

 

20 文界に重きをなす 古典書写・新勅撰集

現在『源氏物語』の転写本は「青表紙本」「河内本」「古本」と呼ぶべき物との三系列がある。

定家64歳の二月記に見える記事は、青表紙本の成立と見る説が多い。

 

21 群盗横行の世 天寿を全うしがたきか

 

22 京洛の衰微 焼亡ありて造営を聞かず・豪商

 

23 寛喜の大飢饉 路頭の死骸数を知らず

 

24 定家の身辺事 病気・保養・楽しみごと

 

25 世事談拾遺 定家の説話文学

 

明月記抄 定家年齢譜

 

あとがき

本書の校正時に至って、定家が比叡山で見た光は確かにオーロラだったと確認された。日本最古のオーロラ観察記録でもあった。

超新星の誕生記録に止まらず、新たな名誉だった。

 

 

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太田和彦 著 書を置いて、街へ出よう

2023-06-07 20:17:12 | 小説

 

書を置いて、街へ出よう

太田和彦 著

晶文社 発行

2023年2月10日 初版

 

居酒屋番組でお馴染みの太田和彦さんの新刊書です。

散歩や舞台鑑賞、そして銀座など、様々な場所を訪問しています。

自分は居酒屋とかにはほとんど行かないないので、番組の前半の街ぶらを主に楽しく観ているのですが、この本でも、その時の雰囲気が味わえます。

太田さんは上品で粋なのですが、キザではないのがいいですね。やはり年の功でしょうか(笑)。

自分にとっては、広い意味での街ぶら番組の四天王の一人になっています(他の人については後日書きます)。

太田さんのように、上手に人生を楽しめるように、年を取っていきたいものです。

まずは何よりも健康だなあ・・・。

 

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気合を入れるにゃんこ

2023-05-07 20:23:48 | 小説

 

今日でゴールデンウイークも終わりです。

 

「ふにゃ、明日からまた気を引き締めて働くのにゃ」

 

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白い袋の天女牛若丸にゃんこ

2023-03-11 06:24:51 | 小説

 

 

うちのにゃんこです。

スポーツ用品店の白い商品袋に入ってしまいました。

天女みたいかな?

ちょっと違うかな…

それじゃ、これでどうだ!

牛若丸です。

うーん、やっぱり違うかな?

アタシはアタシでいいのにゃ

 

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柳田国男「山の人生」の冒頭の事件を赤ペン先生してみる

2023-03-06 19:21:12 | 小説

柳田国男「山の人生」の冒頭の事件について、「柳田国男と事件の記録」(講談社選書メチエ40)をもとに、恐れ多くも、赤ペン先生してみます。なお内容については、柳田が読んでいない『奥美濃よもやま話 三』に書かれた「新四郎さ」のテキストとの差異ではなく、あくまで当時の新聞報道など、柳田が得た情報に近いであろうものとの差異に限定しています。当時の同じような資料をどう読み外に表したかに興味を持つからです。
なお、書かれたページはすべて「柳田国男と事件の記録」からです。


今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。

(この事件の記録は、岐阜地方裁判所にも、岐阜の検察庁にも、東京の内閣法制局にも、法務省保護局恩赦課にも、残っていないという話であった。p181 
戦災や記録の廃棄処分のためであるという。p226)

三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞できり殺したことがあった。

(この記述は大正14年(1925)のもの。p129 
事件は明治37年(1904)に起こった。とすると三十年ではなく、二十年ほど前になるのか。場所は「西美濃」と書いているが、厳密には郡上郡明方村で、むしろ奥美濃もしくは北濃と呼ばれる地域。p172

この男は昭和15年(1940)に亡くなっているので、p160
当時50ばかりということは85くらいまで生きたということになるのか)

女房はとくに死んで、あとは十三になる男の子が一人あった。

(妻は事件の七年前に失った。p212
長男は戸籍謄本では満10歳となっていた。p174)

そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰ってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。

(戸籍謄本では養女とあるが、その男と妻のあいだでその婚姻前に生まれたのを、いったん妻の兄のもとに入籍させ、婚姻ののち、男の戸籍に養女として入れ直したものと考えられる。p174)

その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日には空手で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥に入って昼寝をしてしまった。
眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。

(事件は四月六日に起こっている。新聞報道では六日午前九時、戸籍謄本では午前五時と、やや食い違いがある。つまり秋の末の夕方ではなく、春の日の夜明け前ないし朝のことであった。p196) 

二人の子供がその日当たりのところにしゃがんで、頻りに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事で使う斧を磨いでいた。阿爺、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕らえられて牢に入れられた。
この親爺がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中に出てきたのである。

(特赦は明治三十九年(1906)三月に行われている。p216
事件は明治三十七年だったので、二年ほどで世の中に出てきたことになる)

そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分からなくなってしまった。

(「新四郎さ」の語り部である金子信一の家で草むしりの仕事などして出入りしていたという記録あり。p139)


私は仔細あってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕ばみ朽ちつつあるであろう。

(柳田は明治三十五年(1902)二月から法制局の参事官になったが、その時特赦の事務を取り扱うことがあり、そこでさまざまな犯罪の予備調書や関係資料を読むことになった。p129)
 
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