遠野物語と源氏物語
物語の発生する場所とこころ
鎌田東二 編
創元社 発行
2011年12月1日 第一版第一刷発行
はじめに
柳田国男は文明開化の時代の後の人ですから、洋書に対しても関心を持っており、ヨーロッパの社会人類学や民族学(エスノロジー)や民俗学(フォークロア)の興隆に注目しており、グリムのような童話研究に対しても、抜かりなく関心を払い、目配りしていました。
『遠野物語』と『源氏物語』の距離 山折哲雄
京都タワーからぐるっと京都を見渡す
京都という都市が形成されるプロセスは、まず山から始まる。
森から始まって、時代が移って、稲作農耕社会になって、御所ができる。内裏ができる。
やがて武家社会になって二条城ができる。
戦乱の時代を経て、東西両本願寺ができる洛中の都市世界が生み出されていく。
大正天皇即位時の大嘗祭に参加中、山の彼方の煙を見て、サンカを思い出す柳田国男
平安時代の王朝政権時代の華麗な世界が繰り広げられている時、すぐそばの京都五山、三山の世界には『遠野物語』の世界と見まがうような人間の痕跡がいまだに残存している。
柳田は一面ではものすごいリアリスト、合理主義者だったが、もう一面で、日本の歴史を二千年、三千年のパースペクティブで展望しようとするときは、たいへんなロマンティストになっていた。
論考
柳田国男と太安万侶
「古事・古伝」というもともと非文字の「民間伝承」を『古事記』や『遠野物語』という「伝承テキスト」に文字化しようと企図した二人の中央官僚には、意外と近しい喪失感や危機意識があったのではないだろうか。
一方は中央政権の伝承を、もう一方は鄙の山村の伝承という、大きな違いがあるが、
古伝が帝都(平城京と東京)でまとめられ
そこに有能なる話者(稗田阿礼と佐々木喜善)と書記官(太安万侶と柳田国男)がいて、
「偽を削り、実を求め」るとか、また「平地人を戦慄せしめる」とかと、やむにやまれぬ”公情”と”私情”をもってまとめられたことなども共通するところであろう。
(そういえば柳田国男は稗田阿礼に興味を持っており、記憶力の良い自分の娘に「我が家の稗田阿礼」と呼んていた、というエピソード(『父との散歩』より)を思い出しました)
『古事記』においてと特筆しておかなければならないことは、「ホト」を含め、女神や女性の姿や活動を生き生きと描いている点と、歌謡が多く採られている点である。
『遠野物語』というたった350部の自費出版物は1910年(6月)という、きわめて「物騒」な時代に投げかけられた「爆弾」であった。
「物騒」というのは、一つは大逆事件の勃発である。もう一つはハレー彗星の到来である。(どちらも5月)
(編者は)この1910年という年を、世界史のターニングポイントと考えている。
その理由は、ハレー彗星の到来により、地球上に初めて世界同時性についてのリアルな意識と地球史的危機意識が芽生え始めた年であるといえるからだ。
(編者は)、柳田国男の『遠野物語』の「平地人をして戦慄せしめよ」という柳田にしては不用意ともいえるほどの過剰な文章は、この時代の相乗された「騒動」の過熱に立ち向かう柳田の心意気がほとばしったものではないかと推測する。
「強権」を発動する側の官僚としての立場と、地方に押し寄せる近代の波とそれによって喪われていく「郷土」の民俗の両方を見据えながら発せられた雄たけびが「願わくば之を語りて平地人をして戦慄せしめよ」という語に結実したのではないか。
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