ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

航海の世界史

2024-05-29 20:57:26 | ヨーロッパあれこれ

航海の世界史

ヘルマン・シュライバー 著

杉浦建之 訳

白水社 発行

1977年1月25日 発行

 

副題は「五千年にわたる船と冒険の歴史」となっています。

 

1 小さな舟と大きな海

 

2 地中海という名の転車台

クレタ島は紀元前五十世紀に入植され、それゆえに六千年以上前にすでに舟が存在していて、かなりの数の人びとがその舟で公海を征服した。

 

エジプト人を助けたもの、というよりはおそらく航海をははじめて可能にしたものは、南北に流れる好都合な海流で、これに乗っていけば、原始的な舟でもナイルの河口からすべりだしてレバノンの港ビュブロスにたどり着くことができた。

もちろん帰路は、めったにない北風の日をいつまでも待たなければならなかった。

 

いったん船に乗れば何事も神様まかせというオデュッセウスの轍を踏まぬように、フェニキア人はとりわけて二つの補助手段を持っていた。

ひとつは北極星と小熊の星座であり

もう一つは地中海が提供するいくつかの拠点であった。

 

フェニキア人の航海で最大の、信じられないような、それでいて再三証明されている業績は、ファラオ・ネコの命を受けたアフリカ周航(紀元前613-611)である。

その日数は三年を要したが、マルコ・ポーロにしても海路中国から帰国するのに三年もかかった。

 

フランス大西洋岸のボルドーから古代の最も大胆な冒険航海の一つが試みられた。

マッシリアのギリシャ人ピュテアスの試み(紀元前330年頃)がそれである。

イングランドを回航してベルゲンの北の西ノルウェーにたどり着き、北海航路の特殊条件、とりわけ潮汐、霧、白夜についてはじめて報告した。

同時代や後代の人々が彼の報告を信用せず、とりわけストラポンが躍起になって彼を嘘つき呼ばわりしただけに、ピュテアスはそれに屈した形になったのである。

(ここではアイスランドに行ったとは書いてありませんでした)

 

あらゆる燈台の中で一番風変りなものといえば、カリグラ皇帝が、ドーヴァー海峡にはまだろくな航行もなかったのに、わざわざフランス大西洋探検のために、西暦40年今日のブーローニュの近くに建てさせた燈台である。

ちなみに、この建物は船乗りの怪訝な目をよそに17世紀に至るまで建っていた。

 

3 竜頭船と三日月船

ヨーロッパ大陸の地図を一目見たらわかることだが、陸路を横断するよりも船で一回りする方がたやすい。

ピレネー山脈ががっちり閂(かんぬき)を、アルプス山脈はさらにがっちりとした閂をかけている。そして東にはさらにカルパート山脈に接している。

 

ピュテアスは北イングランドにやってきたとき、港でノルウェーから着いた船を何隻か見せられ、かの国へ立ち寄るよう申し出を受けた。

ピュテアスは船乗りが中継ぎ用の港をよく知り、外国人の扱い方を心得ていること、そして自らのノルウェー訪問後ふたたび楽々と船便を得てイングランドに戻れることを確かめたのだった。

 

ヴァイキングは漁師兼航海者から商業国民になり、アラビア人は商業国民からやむを得ず航海者になった。

 

4 すべての海に帆を上げて

もしルネサンス時代の天才が蒸気船を発明したとすれば、そして蒸気船が十五、十六世紀を支配したとすれば、南北アメリカの発見はたぶん十八世紀まで、いやもしかすると十九世紀まで延び延びになっていただろう。

今日でさえ、現代外洋船の燃料補給はその行動半径にとって決定的だからである。

帆船は外洋越えの長距離航海を一手に引き受けることが出来てきた。

帆船の船室は、貯蔵品と乗組員を納めるためにそっくり使うことができる。それにこの貯蔵品は一般に人が住むところならどこでも補充できる。というより、飲水さえあれば無人島だってかまわない。

 

特に壊血病予防のたまねぎと、古い貯え水の混和剤としての酢は航海の経験に基づくものだった。

事実、大陸ヨーロッパの人間は、香辛料を利かせて料理し、たまねぎ、オリーブ、サラダなどをとる習慣のおかげで、たとえばブリテン人よりもはるかにうまく海の危険を切り抜けた。

 

プトレマイオスは地球の大きさを、誤って七分の二ほど小さく計算したのである。

このことがあらゆる西方航海をことさらに前途有望と思わせたのである。

なんといっても、東に横たわる陸地の広がりを過大に見積もりすぎていた。というのも、シナとインドの旅行記は、果てしない隊商路だの、シナ帝国の途方もない広さだの、そのもっとも東に位置するジパングという名の極めて大きな島だのについて語っているからである。

 

5 人間、船そして大いなる孤独

 

6 ドレークと仲間たち

 

7 ロイテルからネルソンまで

 

8 航海地獄

 

9 全速前進

タイタニックの悲劇は航海の安全規定に革命をもたらし、とりわけ外洋船での無線電信採用を早めるものであった。

こうしたいっさいのことがまだ現代人にどれほど身近であるかは、タイタニックのSOS信号を最初に聞いたアマチュア無線家で、アメリカに住むオーストラリア人が1973年に亡くなったという事実からして明らかである。

 

10 世界の海と世界大戦

 

11 昔はあれほど太平だった洋(うみ)が

 

12 水の上の未来と水の下の未来

コンテナは航海の貨物の面から見た革命

何万人というドック人足がコンテナに反対

コンテナは船の運航計画に基づいて船会社のコンピューターが立てている

また荷役装置が手を伸ばしてつかみやすいようにつくられている。特定のクレーン装置だけで積み下ろしの全部をやってのける。

 

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後鳥羽院 第二版 Ⅱ

2024-05-17 20:24:35 | ヨーロッパあれこれ

しぐれの雲

五音ないし七音を六音あるいは八音にする工夫は、一つ調子をはずした、ゆったりした節回しをもたらしているようだ

それはいかにも帝王調にふさわしい仕掛けで、哀愁も、悲壮美も、そして場合によってはユーモアと呼んで差し支えないような何かも、それゆえに一層高まるのである。

 

隠岐を夢見る

折口信夫が自分を後鳥羽院に見立てたくなった動機

・この帝が和歌に長けていた。

・後鳥羽院が豪奢な宮廷にあって宴遊を楽しみ歓楽にふけった。

・国王から囚人への没落、孤島に配流されてついに都に帰ることのなかった悲劇的境遇

 

折口が北原白秋の歌集『桐の花』に対するにおいて大事なこと

・白秋が古代、中世の歌謡集およびその用語から刺激を受けたという指摘

・若い折口がパンの会(若い文学者たちを主とした都市的な芸術運動)に切ないほどの関心を寄せていたという回想

 

王朝和歌とモダニズム

日本文学は歴史がむやみに長い。八世紀の古事記の中の素朴な歌謡から現在の村上春樹までとぎれることなく続いてきた。

ギリシャ文学は前八世紀のホメロスの叙事詩で始まるが、二世紀のルキアノスの諷刺文学のへんで中絶して、次はいきなり19世紀の現代ギリシャ文学になる。

イギリス文学は八世紀のベオウルフに始まるが、そこから十四世紀のチョーサーに飛ぶしかない。

中国文学は古代からの歴史は長いが、西洋の影響を受けた現代文学への切り替えに手間取った。

 

日本文学は長いだけでなく、ずっと恋愛に対して肯定的だった。

 

どこの国でも大昔は母系社会だったが、日本はそれが長く続いて、十五世紀頃に父系社会になった。応仁の乱以前の日本はまるで外国のようだった。

 

婿入りする帝という考え方は高群逸枝の説

 

天皇と和歌の関係

・まず自分で和歌を詠む。代作者がいても、とにかく詠む格好にする。

・宮廷和歌のパトロン

・勅撰集を編集させた

 

後鳥羽院を論じた最高の評論は折口信夫の『女房文学から隠者文学へ』

 

今様

十世紀の末頃からはじまって、十一世紀の中頃からはやりだした。

神楽歌、催馬楽、風俗歌などが古い唄で、今様は新しい様式の唄。

はじめは民謡であったものが職業的な歌い手、遊女や傀儡によって磨き上げられ、次いで貴族のサロンにおいて洗練された。

 

 

 

 

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後鳥羽院 第二版 Ⅰ

2024-05-16 20:58:40 | ヨーロッパあれこれ

後鳥羽院 第二版

丸谷才一 著

ちくま学芸文庫

2013年3月10日 第一刷発行

 

丸谷才一さんによる歌人としての後鳥羽院讃歌です。

 

歌人としての後鳥羽院

 

我こそは新じま守よ沖の海のあらき浪かぜ心してふけ

 

藤原定家の「み渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ」

見渡せば桜も紅葉もない、海のほとりの苫葺きの小屋からの秋の夕景にしくものはない、桜も紅葉もこれにはかなわぬ、という二重に入り組んだこころをこの三十一文字に託したのではないか。

 

後鳥羽院の「見渡せば」

・広やかな眺望を好むという個人的な嗜好

・風景美に対する詩人としての態度

・帝王として見渡した局面

 

橋姫

柳田国男によれば「大昔我々の祖先が街道の橋の袂に、祀っていた美しい女神」

 

二十世紀ヨーロッパに見られる現象

文学者たちは写実主義から脱出する手掛かりを神話に求め、神話のパロディや再解釈という形をとった。

詩 エリオットの『荒地』

戯曲 サルトルの『蝿』

小説 ジョイス『ユリシーズ』

 

へにける年

『後鳥羽院御口伝』のなかにおける定家への攻撃

同時代のほかの歌人たちにはみな一言二言、褒めるだけにして、定家に対しては長広舌をふるうあたり、桁違いに重視したとしか思えない。あれはやはり一種特異な形での敬意の表明なのである。

 

定家の歌が称讃されたことを記しているのは、この百首歌が初めてであり、しかもその推賞者は後鳥羽院だったのである。

すなわち定家は後鳥羽院に発見された文学者だったわけで、上皇はこの発見一つだけでも日本文学にこの上なく重要な寄与を行った。

 

すでに卓越した技法を身に着けている初老の男は若いパトロンの嗜好によってそれをいよいよ磨き、

ようやく和歌のおもしろさを解し始めた青年は自分の趣味にかなった芸術家に触発されてみるみるうちに腕をあげていく。

 

定家に関する限り、彼の歌道への執心、彼の力量における上皇の信頼、それに彼の不器用な性格がこもごも作用して、定家は後鳥羽院と何度も衝突しては屈辱を味わった。

そしてあるいは病と称して和歌所に現れず、あるいは事実、病気(おそらく重いノイローゼ)になりながら、しかし結局のところ上皇の最良の助手、ないし相談役だったようである。

 

普通『新古今』編纂の内情について語る場合、『明月記』の記載が主な資料となるため、我々はどうしても定家側から事態を眺めがちで、もっぱら定家に同情し、話をそこで打ち切ることになるけれども、これはあまり想像力の豊かな態度ではない。後鳥羽院にしても多少は気兼ねしたはずなのである。

第一にその相手は遠慮ということを知らなくて、何かにつけて自説を頑強に言い張る。しかも定家は、頑固でひがみっぽい反面、有能で学識があり誠実だったし、それは後鳥羽院もよくわかっていた。

 

柿本人麻呂と山部赤人以降、斎藤茂吉と北原白秋に至るまで、並び称される歌の上手は多い中に、その運命的な対照によって隠岐院と京極黄門の一対に優るものはついになかった。

 

帝王が隠岐配流となってから、定家は保身のために近づかないよいという配慮があった。

彼が関東をはばかったのは動かぬところと言わねばならぬ。もともと定家の生活の基盤は鎌倉方と親しい人々によって固められてた。

 

文学者と文学者との真の関係は、互いにどれほど影響を受けたかということにしか存しないだろう。そして彼らは反目し対立する晩年において実は最も深く互い影響を与え合った。

 

高齢の身になってから、あるいは更にさかのぼって承久以後、定家は批評家であり古典学者であった。

批評家としての彼は後鳥羽院の影響を容易に探ることができる。

 

後鳥羽院は最後の古代詩人となることによって近代を超え、そして定家は最初の近代詩人になることによって実は中世を探していた。

前者の小唄と後者の純粋詩という、われわれの詩の歴史における最も華麗で最も深刻な対立はこうして生まれ、そのゆえにこそ二人は別れるしかなかったのである。

 

宮廷文化と政治と文学

ナポレオンと対応するものとして後鳥羽院

保田與重郎は英雄にして詩人という彼の主題を託するための格好な対象として、埋もれていた一人の大歌人を発掘した。

 

承久の乱という反乱の最も重要な部分は後鳥羽院という一人の妄想に属しているからである。

彼はそれを長い歳月にわたって心に育て、その結果、久しい以前から隠岐に流されることを夢み、更にはその事態に憧れていたようにさえ思われる。

あはれなり世をうみ渡る浦人のほのかにともすおきのかがり火

これは遠島以前の作?

 

和歌という文学形式が呪言によって生まれ、儀式となり挨拶となったという折口信夫の説は正しいようである。

 

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フレップ・トリップ 北原白秋 著

2024-05-11 21:02:40 | ヨーロッパあれこれ

 

フレップ・トリップ

北原白秋 著

岩波文庫 緑48-7

2007年11月16日 第1刷発行

 

大正14年8月、鉄道省主催の樺太観光団に加わった時の紀行文です。

文体的に実験的な叙述になっています。

 

揺れ揺れ帆綱よ

 

海上の饒舌

 

小樽

挨拶の時、特に発言することも無いので、三遍同一点でぐるぐる廻る白秋さん

 

おおい、おおい

 

安別

日露国境の安別訪問。鮮やかな緑の低い丘陵、そのところどころの黒と立ち枯れのうそ寒いとど松、それだけの眺めの下にぽつぽつと家が五、六戸。

 

パルプ

パルプ工場での木々

(林芙美子の樺太紀行文で、樺太の森の無さを嘆いていたことを思い出した)

 

真岡

筆者にとっては雅味のない町

 

多蘭泊

 

本斗の一夜

 

樺太横断

西海岸の真岡から、樺太庁の所在地たる豊原まで、二十余里の森林を、蝦夷松、椴松、白樺の原生林を抜けて、自動車で横断する。

途中六回パンクする。

 

小沼農場

 

イワンの家

ロシア人の家にどかどか入って、内部を見学する観光団。失礼にもほどがある。

沿海州から北樺太へ、さらに国境を越えて南樺太に行って、どうにかバルチザンの残虐から逃れおおせたものであろうか。

駅でパンを売る少年イワン

(林芙美子が出会ったロシア人(実はポーランド人)のパンと牛乳売りを思い出した)

 

豊原旧市街

 

樺太神社

 

豊原からの消息

 

木のお扇子

 

 

曇り日のオホーツク海

 

敷香

バルチザン滅落後も北樺太の赤派は極端に不良で、白系の良民に対して脅迫掠奪残虐至らざるなし、ということであった。従って良民は南下して日本領内に亡命した。

 

海豹島 

 

ハーレムの王

 

巻末に

 

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大学の起源

2024-05-10 20:55:05 | ヨーロッパあれこれ

大学の起源

チャールズ・ホーマー・ハスキンズ 著

青木靖三 三浦常司 訳

八坂書房 発行

2009年11月25日 初版第1刷発行

 

Ⅰ 大学制度の発生

ギリシャ人やローマ人の法律や修辞学や哲学の教育の多くは凌駕しがたいほど高度なものであったが、それは永続的な学問機関という形に組織されていなかった。

十二、三世紀になって、われわれに最もなじみ深い組織された教育の諸特徴、すなわち学部や学寮や学科課程が代表している教育の全機構、試験や卒業式や学位が世の中に現れる。

 

初期の大学は創設者もなく、いつから始まったかもはっきりわからなくて、明白な記録なしに徐々に静かに発生して、「まさに自然発生した」と言えるものが多い。

 

1100年と1200年の間に、いくぶんかはイタリアとシチリアを通じてだが、主としてスペインのアラビア人学者たちを通じて、西ヨーロッパへ新しい知識が多量に流れ込んだ。

それらはアリストテレス(哲学者)、エウクレイデス(ユークリッド、数学者)、プトレマイオス(天文学者、地理学者)、およびギリシャの医学者たちの著作、新しい算術、ローマ法の本文などであった。

 

サレルノの医科大学

11世紀の中頃の医学校。医学の歴史においては重要だったが、大学制度の成長には何の影響も与えなかった。

 

ボローニャは、ローマ法の復活の中心地として最も注目すべきではあるけれども、多くの面を持った学校であった。

ローマ法は中世初期に西欧から姿を消したのではなくて、その影響力がゲルマン人の侵入してきた結果大いに減少していったのだった。

 

北ヨーロッパにおいては、大学の起源はパリのノートルダムの司教座聖堂学校に求めなければならない。12世紀初めまで、フランスや低地諸国においては、学問はもはや修道院専有のものではなく、司教座聖堂の付属学校が学問の最も活発な中心になっていた。

 

パリの強みは一つには地理的、一つには新しいフランス王国の首都としての政治的なものであったが、幾分かはアベラルドゥス(アベラール)という偉大な教師の影響力のせいにしなければならない。

 

いつパリが司教座聖堂学校ではなくなって大学になったかは誰にもわからないが、12世紀末以前だったことは確かである。

しかし大学というものは祝うべき正確な日付をもちたがるもので、パリ大学は最初の国王の勅許状を得た年である1200年を選んだ。

 

教師たちの組織された団体という意味での大学(ユニヴァーシティ)はすでに12世紀に存在していた。1232年まではそれは発展して自治団体になっていた。

それはパリは、ボローニャとは対照的に、教師たちの組合だったからである。

 

12世紀のパリに起源を持つもう一つの大学制度は学寮(カレッジ)である。

 

パリは中世には神学の学校として抜群であった。そして神学は「高等学問夫人」と呼ばれ、中世の学問の最高の科目であったので、とりもなおさずパリは大学としては抜群であった。

「イタリア人はローマ教皇制度をもっており、ドイツ人は神聖ローマ帝国をもっており、フランス人は学問をもっている」という古いことわざがあった。

 

結局、大学の伝統が最もまっすぐに伝わっているのは制度においてである。

 

Ⅱ 大学教育

もしも古代の古典と自国語文学の欠如が学芸のカリキュラムの顕著な特徴であるならば、同程度に顕著な事実は、論理学または弁証法が非常に重視されたことである。

最も初期の大学規則である1215年のパリ大学の学則は、アリストテレスの論理学の著作全体を履修することを要求しており、これは中世を通じて学芸課程の中心だった。

 

法律学においては、全ての教育の基礎は必然的にユスティニアヌスの『ローマ法大全』であった。というのも、中世ヨーロッパの慣習法は、一度として大学の研究科目になったことはなかったからである。

 

Ⅲ 学生の生活

中世の大学生活の遺物は、学生の手引書、学生の手紙、学生の詩の三つに大別される。

 

大学記録(資料)

一 勉学のために旅をする学生たちのための特権(1158年)

皇帝フリードリヒ赤髭王が1158年に発布

ある原因で逮捕されることからの免除や、市当局の代わりに教授か司教の前での裁判は貴重な特権だった。

 

二 フィリップ尊厳王がパリの学生たちに与えた特権(1200年)

 

三 パリ大学にたいするグレゴリウス九世の大勅書(1231年)

教授免許を与える際のパリの文書局長の力を制限し、パリ大学の立法権と講義停止権を認め、種々の点において学徒たちを保護するものである。

 

四 教員免許授与権(ローマ教皇ニコラウス四世の大勅書、1292年)

 

五 教師と学生の税金の免除(パリ大学に対する1340-41年のフィリップ四世の勅許書)

 

六 ハイデルベルグ大学の設立勅許書

パリが大いに手本になったということと、教師と学生に多くの特権を与えている

 

七 1764年のブラウン大学の設立許可書

アメリカの初期の大学が、特権や免除の点で、古いヨーロッパの大学の影響を受けていた。

 

八 トゥールーズ大学への勧誘書(トゥールーズの教師たちからの他の諸大学への手紙、1229年)

 

九 アベラルドゥスの『然りと否』

 

一〇 パリでのアリストテレスの受け入れられ方

教会当局は最初アリストテレス研究に対して躊躇する態度を示していたが、のちに彼を神学のとりでとして採用するようになった。

 

十一 1241年にパリで断罪された十か条の誤謬

 

十二 パリ大学で学芸の学位に要求された書物(1254年)

七自由学芸のうちのいくつかの欠如と、アリストテレスの書物の多さに注目

 

十三 パリ大学へ遺言によって贈られた書物の目録(1271年)

 

十四 ボローニャ大学の学芸と医学の教科書(1405年)

 

十五 ライプツィヒ大学で学芸の学位に要求された書物(1410年)

 

十六 トゥールーズ大学学芸学部の講義時間表(1309年)

 

十七 ライプツィヒ大学の学芸学部の講義時間表(1519年)

 

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