ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

播磨の峠ものがたり

2020-11-12 20:46:47 | ヨーロッパあれこれ
播磨の峠ものがたり
須磨岡 輯 著
神戸新聞総合出版センター 発行
2012年12月13日 第1刷発行

柳田国男も愛した峠。
本書では、播磨(神戸市、朝来市の一部を含む)の66峠を取り上げ、一覧では198峠を記しています。

西脇市住吉町ー篠山市今田町黒石
比延峠
国道175号から比延峠のある県道36号に分岐してすぐに、東経135度、北緯35度が交差する「日本へそ公園」がある。人工衛星やGIS、GPSによる地球規模の測量で、これまでの“へそ”地点から南東方向に437.6mの誤差が生じた。その新中心点にフランス人パトリック・ベルジェ氏によるモニュメントが作られ、新たな「日本のへそ」が誕生している。



神崎郡神河町猪篠-朝来市生野町真弓

真弓峠〈生野峠、追上峠、藤の棚〉

徳川時代が終焉を迎えると、明治政府は西欧諸国に追いつこうと鉱山開発を奨励し、再び生野が脚光を浴びた。世界一の製鉱所を目指し、飾磨港に陸揚げされた外国製の鉱山機械を運ぶため、そして鉱物を港に運ぶため、フランス人技術者レオン・シスレイ(シスレー)によって、馬車専用道が作られた。約49㎞、幅6mの道は明治6年(1875年)に着工、9年に竣工し、「生野鉱山寮馬車道」と名付けられた。旧但馬街道を近代技術で拡幅併用し、生野町の南口にあたる盛明橋から真弓峠を越え姫路へ繋がっていた。



姫路市大塩町-高砂市北浜町牛谷

馬坂峠

峠名の由来は、羽柴秀吉が西国遠征の途、死んだ馬を峠近くに埋めたところ、夜な夜な馬が化けて出るということから馬坂と呼んだそうである。



姫路市木場-姫路市的形町福泊

袖もぎ坂

袖もぎ坂には「袖もぎ地蔵」と呼ばれる延命地蔵尊がたたずんでいる。

昔この坂でつまづいて転ぶと凶事が起こると言われ、厄を払うため着物の片袖をちぎって供えたことからこの名がついたと言われている。



たつの市御津町室津-たつの市揖保川町馬場

屋津坂峠〈鳩ヶ峰、鳩胸坂峠〉

文政9年(1826年)にシーボルトが『江戸参府紀行』(東洋文庫)を残している。

「・・・室を後にした。小さい町のすぐ後ろに山がそびえ、階段状に岩を切って作った細い道が山越に通じている。人夫も苦労の末やっと駕籠や荷物を山頂まで運び上げた。もっと驚いたのは荷を背負った牛馬が石段を確実に上ることである。ここに、宿屋が一軒あり、従者たちは休憩し、我々は素晴らしい景色に見とれた。・・・馬場村近くで一人の武士が使節一行に藩主の名代として挨拶したのである」と記している。
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父 柳田國男を想う

2020-11-08 19:40:58 | ヨーロッパあれこれ
父 柳田國男を想う
柳田為正 著
筑摩書房 発行
1996年4月25日 初版第1刷発行

柳田國男の五児の唯一の男子であり、理学博士である著者が、長男から見た父柳田國男の想い出を述べています。

世間の評者間には、父の書くものに文学的側面から関心をもたれる向きが多かったようだが、本人自身の積もりでは、多分に人性の客観的・合理的探求を目指していたかに覚えてならない。第一その文体なども、一見持ってまわった晦渋な行文のように見えて、その実本人の念頭には、ヨーロッパ語文脈の道標が貫いていたかのようだ。だからかれの書き物の欧語訳は、やってみれば存外(ある意味で)楽な作業となる可能性もあったはずと思う。p26

父の仕事の“科学的”“実証的”な面をいって下さる向きも多い。父が“方法論”の勉強をどのようにしてやったかは、私はついに知らなかった。ただ、フランス語について、フランス語の会話は難しい(ジュネーブで散々苦労)が、科学のフランス語文は単純で読みやすいものだ”ということをたびたびいっていたし、フランス科学からの感化をどこかで受けていたのではないだろうか?p41 p69

父が貴族院書記官長だった時の思い出は、書記官長公室内に漂う船来たばこの香りだけだった(当時著者4歳)

関東大震災の時、ジュネーブの国際連盟事務局も休暇中で、父はたまたま英本国旅行中だったが、東京の大地震の記事で富士山は爆発消失、江の島も水中に沈没したとのニュースが入っていたとか。p59
(今風にいえば、フェイクニュースですね)

市ヶ谷から成城に移った柳田さん
かねがね念願の仕事部屋ができて満悦だったが、養父養母への心づかいもあって、妻や娘たちはあえて引き連れず、市ヶ谷の旧居に残した。
そして國男さんと、学校が近くなる著者と、家事担当の野沢氏と、岡氏の男4人所帯となるが、2年で終わり、結局家族を呼びよせることとなる。

成城の家は、大正12年晩秋に欧州づとめから帰宅した柳田さんが、子供らが掘り炬燵にかじりつく姿を見て愕然とし、それがこの新居の設計にさいし全館温水暖房用ボイラー設置の敢行につながった。p96
(自分の欧州時代は古い下宿だったが、それでも床暖房のおかげで、冬は快適だったのを思い出す)

ジュネーブ在勤経験のいま一つの所産は、エスペラント語熱で、これは当時フランス語専横だった国際舞台への反応だった。夕食後の団らん時に、子供たち相手に、エスペラント語のレッスンを試みていた。p138

柳田の田は濁らない。著者の知っている柳田は、聞いてみるとみんな濁らない。p139

柳田さんが眠れない時は、天井板の碁盤目を眺めて、新聞とかに出ている詰め将棋や連珠を解きながら眠っていた。p162

柳田さんはリヴィング・シング(生き物)が好きだった。
小さいころ、辻川のお堂の下にいた子犬を選んで、自分で飼っていた。
また野鳥も好きだった。p169

柳田さんが息子に自然科学をまずやれということは、それを専門にしろという意味ではなくて、基礎教養のつもりで勧めていた。p181
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シャンティイのフランス式庭園

2020-11-07 15:45:05 | フランス物語


シャンティイ城のフランス式庭園の画像です。
まずどこから撮ったかということですが、どうやら城内部からのようです。
濠が広がり、その向こうがフランス式庭園となります。
この庭園もお馴染みのル・ノートルにより設計されています。
五つの池のような水面があり、上下には円、左右には楕円、そして中央に短辺が曲線の長方形が設定されています。
現地でもらったフランス語のチラシをみるとLes Miroirsと書かれていたので、鏡を表現しているのかもしれません。
そしてこの庭園の左端に上下に伸びている小道は「哲学者の小道」(L'ALLE DES PHILOSOPHES)と呼ばれています。
これはラ・フォンテーヌ、ラ・ブリュイエール、ボシュエ、モー司教、ド・ラファイエット夫人、セヴィニェ夫人らが交流する文学サークル参加者にちなんでそう呼ばれたそうです。
大運河を越えたところに芝生が広がっています。
そのエリアはLE VERTUGADINヴェルトゥガダンと呼ばれています。
この元の意味は、15世紀末のスペイン宮廷モードに由来し、婦人服のスカートを広げるために用いられた枠つきのペティコート、とのことです。
よく当時の女性の肖像画で見られる、幅広いこんもりとしたスカートの元です。
それから転じて?(形から由来するのでしょうか?)、テラスなどに使われる芝生地、という意味もあるそうです。
ちなみにグーグルマップを見ていると、城のすぐ近くに同名のレストランがありました。

(ニコラ・ガルニエ シャンティイー を参考にしました)
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シャンティイのグランシャトーへいらっしゃい!

2020-11-03 06:27:42 | フランス物語


「古の写真でめぐるフランス」シリーズ、今回からはシャンティイになります。
訪問したのは2001年の1月です。天気は良かったのですが、冬で、なおかつ緯度の高いフランスということで、太陽光線がいかにも斜めという画像になっています。
シャンティイ駅からの途中の写真は以前取り上げていたので、シャンティイ城エリアに入ってからの写真となります。
まずはシャンティイ城の全景から。
城を大まかに区分すると、右側がグラン・シャトー、左側がプティ・シャトーとなります。
何の芸もなく直訳すると、大きな城と小さな城という意味です。
グランシャトーと聞くと、自分なんぞは京橋のそれ、を思いだしてしまいます。
思わず、♪シャンティイはええとこだっせ♪、と歌いたくなります。(笑)

シャンティイの城を撮る角度ですが、パンフレットとかを見ると運河というか水路というか濠というかに城を反映させている画像が多いようです。
その一つにプティ・シャトーを中心に撮っている画像がありました。
この時はプティ・シャトーが工事中で、その角度は諦めていたようです。
掲載した画像の角度は、ちょうど礼拝堂が中心にきており、城をまんべんなく捉えているように思います。
シャンティイのような城館はどうしても平板な構図に成りやすいのですが、礼拝堂の尖塔のおかげで高さに変化を与えてくれています。
礼拝堂に感謝、です。
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東京するめクラブ 地球のはぐれ方

2020-11-01 17:08:16 | ヨーロッパあれこれ
東京するめクラブ 地球のはぐれ方
村上春樹 吉本由美 都築響一 著
文藝春秋 発行
2004年11月15日 第一刷発行

村上春樹さんを隊長とする、東京するめクラブが、名古屋・熱海・ハワイ・江の島・サハリン・清里を訪問し、独自の視点で書き、語っています。
表紙の安西水丸さんのイラストも呑気さに花を添えて(笑)います。
サハリンを描いた「サガレン」から、こちらの本にたどり着きました。するめクラブでは2003年に訪問していることもあり、それから15年ほど経た「サガレン」よりも更に、この地のワイルドさを感じます。
それでも夏の七月の訪問のため、サハリンの一番いい時期を味わえたようです。
村上さんは以下のように書いています。

でもそこはとても素敵な世界の端っこである。こんな深い静けさの中に入ったのは、本当に久しぶりだ。僕は自分の身体の中のスイッチみたいなものを切り、その静けさの中に心を溶け込ませる。そこはとても安らかな世界だ。サハリンに来なかったら、こんなしんとした気持ちにはなれなかったかもしれない。遠くまで来ただけのことはあったな、と思う。地図を見れば、そんな遠くでもないのだけれどね。p280
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