ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

ヨーロッパの言語(後半) アントワーヌ・メイエ著

2023-04-18 20:02:17 | ヨーロッパあれこれ

 

19世紀初頭以降の言語の発展の歴史を支配している特徴は、新しい国語の確立である。民族としての自覚を持つ民族はいずれも、自分たちの文語と自分たちに固有の教養語を求める。p250


ヨーロッパ西部ではヨーロッパ東部とは異なり、国語を確立する第一要因は宗教ではなかった。国語はまず世俗的要求のために用いられた。あるいは本質的に宗教性は持たなかった。p265


16世紀、印刷術の発明により国語による出版物が増え、出版物は固定的な性質を帯びるようになった。印刷言語の統一性が確立された。
他方、16世紀は学者語として、また国家語としてのラテン語の役割が減少した。p270


17世紀になると、ほとんどすべてのヨーロッパ西部の国で国語の固定化が完了した。p272


庶民に使われている語彙を文学に移入するためには、まさに第一次世界大戦が必要だった。戦争中、国民のあらゆる階層が同じ部隊で親しくなり、兵士は俗語でよく使われる単語を使っていた。このような軍隊における用法によって、俗語は一種の品位を与えられ、作家は兵士の登場する作品に、人の気分を害することなくパリの下層民の言葉を使用できるようになった。p291-292


スイスでは公認された言語が三つあり、事実上は四つの和語の型が存在するにもかかわらず、連邦型の憲法を持ち、古くから公共精神を育んできたおかげで、スイス人は言語論争をすっかり免れている。p308


ラテン語は内陸国家の言語であり、ローマ帝国とその行政の公用語であったため征服された民族に採用された。
一方ギリシャ語は海路を通じて広まった。


ヨーロッパ東部は、アジアからの侵攻の通路の役割を果たした。
これらの侵攻は、特にスラブ語諸言語の分裂を促し、そのため彼らは安定した組織をつくり文明化を徹底することができなかった。p321


19世紀ロシア文学が新鮮な印象を与えるのは、民衆語と文語の接触によるところが大きい。p328


フランス語文法は複雑な動詞体系を持っており、不規則動詞や欠如動詞がたくさんある。
16世紀および17世紀に確定された正書法は、歴史的であると同時に衒学的である。これは実際の発音に対応していない。p416


英語はそれ自体を見ると、単純で規則的な型を持つ便利な言語である。
ロマンス諸語は今も男性形や女性形といった無意味な区別を維持しているが、英語はこのような文法的範疇といった不条理を捨ててしまった。p426-427


精神を柔軟にするために、ラテン語は現代語の知識よりはるかに有益である。
古典語を学ぶことによって、全く新たな言語体系に立ち入ることが出来る。p436


ある時期に流行した最初の人工語はあるドイツ人が発明したヴォラビュクであるが、あまりに難しかったため、すぐに放棄されてしまった。p457


人工語は、それほど繊細なニュアンスのない事実や観念を正確かつ簡素に論ずるにはふさわしいが、まさにその本質によって、文学的表現には不適当である。p465


エスペラント語のような国際語を知っている中国人や日本人は、すでにヨーロッパの諸言語になかば導き入れられたようなものである。p469


話語(parler)
口語や言とも訳される。
俚語(patois)
使用地域がさらに小さな話語p493


文明語(langue de civilisation)
標準化された書記体系を持つ言語で、独自の文学や思想、学術を保持する民族が使用する言語


メイエはスラヴ語の一体性を強く主張してために、ウクライナ語という名称を使わずに、小ロシア語と呼びならわし、大ロシア語(ロシア語)との類縁性を強調した。p494


イドはエスペラント語で「派生物」の意。エスペラントを改良してつくり1907年に発表した。


同時通訳の機械は1926年にIBMが開発し、1927年に国際連盟の会議で初めて試みられた。p504

 

(地図は1928年頃のヨーロッパ言語地図です)

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ヨーロッパの言語(前半) アントワーヌ・メイエ著

2023-04-17 20:06:13 | ヨーロッパあれこれ

 

ヨーロッパの言語
アントワーヌ・メイエ 著
西山教行 訳
岩波文庫 青699-1
2017年9月15日 第1刷発行

著者のアントワーヌ・メイエは社会言語学の先駆者として位置づけられています。
本書の原題はLes langues dans l'Europe nouvelleつまり「新生ヨーロッパの諸言語」です。
第1次世界大戦頃に書かれました。


ある時期に明確に存在していた複数の言語が、それ以前の時代に話されていた一言語の分化によって派生したものである場合、これらの言語は同じ語族に属するといわれる。p101


ルートヴィヒ2世(東フランク王、在位843-876)が西フランク人の前で宣誓を行い、年代記作者ニタールがストラスブールで行われた宣誓の文書を書き残したが、それはラテン語ではなく「ロマンス語」によるものだった。これが現存する最古のフランス語である。p102


帝国内の属州の住民は、ラテン語ではない言語の遺産から受け継いだ傾向を持ったままラテン語を話した。
ローマ文明の衰退と学校の影響力が衰え、その結果、文語の影響力が衰退することによって、帝国の各地はそれぞれ独自の道を歩むようになり、属州の数と同じだけのラテン語の形態が現れた。
こうして中世の初頭から、ほぼそれぞれの地域で、独自の言語的発展が見られるようになった。p154-155


近代国家という装置は、行政、学校、軍隊などで、誕生の時に個人をとらえ、死ぬまで個人を抱え込むもので、共通語の使用やその知識を押し付ける。p181
この作用に二つの影響が加わる。文語と商取引の影響である。p182


言語拡張の場合を見てみると、その筆頭に来るのは、侵略や植民地化である。しかしこのように言語が拡張するためには、その言語は高級文明の道具の役割を果たさなければならない。p200


土地の話語は老人が今なお身に着けている地方色の濃い衣装と同じようなものだが、子供たちはもうこれを脱ぎ捨て、隣町の普段着を着るようになっている。
話語は、それを知っていた最後の老人が死んでしまうと、そこで消滅してしまう。p203


動詞はフランス語における唯一の複雑な要素だが、フランス語をもとにしたクレオール話語では、動詞は不定形のみに単純化されている。p209


ある時点でほぼ同一であったいくつかの話語が、それぞれ独自の進化を遂げ、ひとそろいの共通の改新が実現し、かつ各地の住民がそれぞれの土地の話語を用いながらも、同時にある一つの言語を話しており、この言語の内部において、ある特定の言語集団を形成しているという自覚を持っている場合に、「方言」があるとされる。p220-221


カロリング朝時代(751-987)に古典研究が再興するにともない、かなり正確なラテン語に戻った。
これ以降かなり自律性を持つ俗語とは別に、学者語が成立した。それは教会および学問の言語であり、一言でいえば中世を通じてヨーロッパ西部の知的文化の言語である。p228


フランス語で書かれた最古の散文は、ジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン(12~13世紀の歴史家で、十字軍に参加し、「コンスタンティノープル征服記」を記した)やジャン・ド・ジョワンヴィル(13~14世紀の歴史家で、ルイ9世に仕え、王の伝記を記した)などによる戦士の物語で、戦士の経験や見聞を物語るものである。p229


西方世界では、アイルランドやドイツのように一度もローマ帝国の傘下に入ったことのない国でさえ、ラテン語が学者語になった。
東方世界および小アジアでは、キリスト教化した民族は全くギリシャ化しなかった。そのため民族の数と同じだけの学者語がつくられた。p242


大文明語は、同一の文明集団に属するさまざまな言語、場合によっては語族さえ違う諸言語に、学術用語や表現法といった共有財産を提供する。その言語を通じた影響力は絶大である。ex中国語とヴェトナム語や日本語p247

 

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サマルカンドへ ロング・マルシュ 長く歩くⅡ

2023-04-09 20:21:48 | ヨーロッパ旅行記

 

サマルカンドへ ロング・マルシュ 長く歩くⅡ
ベルナール・オリヴィエ 著
内藤伸夫 渡辺純 訳
藤原書店 発行
2016年7月10日 初版第1刷発行

62歳のフランス人男性が、2000年にトルコ東端からイランを横断し、トルクメニスタンを通りウズベキスタンのサマルカンドに、ほぼ徒歩で至った旅の記録です。
この前後にはイスタンブールから出発し、西安まで歩き、最終的にシルクロードを制覇しています。
結構な歳の方が歩くだけでも凄いのに、自然の脅威や社会的にも危険な土地柄、そして信用できない警察や国境の役人に対して立ち向かう姿にはさらに敬服させられます。
自分はテレビの町ぶら番組が好きで、その中でも日本国内の四国八十八ヶ所や芭蕉の奥の細道を歩いてめぐる番組、まさしくロング・マルシュ番組を視聴して、なおかつ憧れているのですが、まず体力からして持ちそうにないのが残念です。
 

1 嵐
廃位された国王と同じ名前だった人
イランの革命の後、大学を去らね場ならず、長距離トラックの運転手となる。
フランスでは、40年のフィリップたち(ヴィシー政権のフィリップ・ペタン元帥にちなむ)は、その名前のせいでこれほどの辛酸をなめる必要はなかった。p38

2 バザール

 

3 キャラバンサライ
キャラバン用の館の伝統は、二十五世紀前からアレクサンドロス大王に征服されるまでにこの地を支配したアケメネス朝にさかのぼる。
もとは郵便用の宿駅だったが、その後商人やさまざまな宗教の信者の宿泊地となる。

4 渇き

5 泥棒警官
泥棒警官にカメラを盗まれる筆者

6 テヘラン
トルクメニスタンのビザの取得、砂漠横断のための小さな荷車(表紙の写真)の制作、新たなカメラの受け取りを何とか行う
 

7 砂漠
一部を車で移動
2000年6月29日 セムナーンで徒歩旅行再開

サッカーのユーロカップ決勝をホテルで観戦する筆者たち
フランスの逆転優勝
(自分はパリにいた時にこの試合を見て、フランス勝利後夜のパリの街をさまよった思い出があります)

8 芸術家たち

 

9 タリヤーク
タリヤークとは阿片のこと
麻薬が蔓延するイラン

10 サヴァク
サヴァクとはシャーの時代に忌み嫌われていた警察
革命後その警察を再利用するムッラー

ホメイニを受け入れたからフランス人は好きだが、イラン・イラク戦争の時イランを爆撃したのはフランスの飛行機だった。p174

11 巡礼者たち
三百万以上の人口を数えるイラン第二の都市マシュハドのすごいところは、何よりも毎年千五百万人の巡礼が九世紀にひと房の葡萄で毒殺された第八代イマームのレザーの墓にお参りにやってくることにある。p289

 

12 国境
イラン社会でわかったことは、偉人や聖人の廟を訪れるのはごく普通のことだが、それはムッラーたちの乱暴で息のつまる権力に対して距離を置いていることを表現できるからなのだ。p296

イランで驚くべきことは、自然の国境がなく、波瀾の歴史を経てきたにもかかわらず、統一性を保持できたということである。p300

13 トルクメン人
旧共産党幹部であったサバルムラト・ニヤゾフはTKPトルクメニスタン共産党という略語の一文字を変えてTDPトルクメニスタン民主党、にしただけである。それ以外、何も変わったものはなく、党が莫大な富を握り続け、党を率いていた特権階級がいまも変わらずその地位にある。
そしてニヤゾフに対する個人崇拝は古今の例をしのぐ。p322

トルクメン人とウスベク人はロシア語に対する独立性を確認する意味でラテン文字を採用したが、それでもロシア語がトルクメン人、ウスベク人、タジク人、キルギス人が使う中央アジアの本当の共通語である。p328

 

14 カラクム
カラクム砂漠
人が神の声を聞いたのは、常に砂漠のことだったといわれる。
生命の跡すらなく、人間は圧倒されるほかないこの無辺の世界では、神の力、救いの手を差し伸べてくれる力という考えにすがるのは慰めである。p355

15 ブハラ

16 サマルカンドの青い空
変化の渦中にあるウズベキスタン
ロシア人は国外に移住している。公式言語はウスベク語
宗教は往時の繁栄ぶりを取り戻しているが、アフガニスタンのタリバンの侵入を警戒している。p421

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図説 中世ヨーロッパの商人

2023-04-08 07:24:46 | ヨーロッパあれこれ

 

図説 中世ヨーロッパの商人
菊池雄太 編著者
河出書房新社 発行
2022年2月28日初版発行

第一章 商人ヴァイキングの時代 初期中世の交易ネットワーク
ゲルマン人の民族移動の時代が終わり、北ヨーロッパでドイツ商人が活躍するまでの間に、ユーラシア西部において大きな役割を果たしたヴァイキング

ヴァイキングが故郷を出立してユーラシア西部に拡大した理由は、金にかわってユーラシア西部で流通した銀を求めたから。p11

 

第二章 旅する商人
中世初期の商人を代表するのはユダヤ人

商人のまとまりを持った団体=商人ギルド
11世紀から史料に現れる

 

第三章 都市における商人
君主や領主による市場の創設により、都市が発展した。

中世ヨーロッパ、バルト海沿岸の都市では建築用の石材が不足していたため、レンガで建設された建物が多かった。その中でも中世に流行したゴシック様式の建物は、レンガ・ゴシックと呼ばれている。
デンマーク、ポーランド、ドイツでは、現在、ヨーロッパ・レンガゴシック街道という団体があり、レンガ・ゴシック建築を観光資源として活用すると共に、その保存や広報活動にも力を入れている。p57-58

 

第四章 交易の現場から
14世紀後半のコッゲ船は、88トンの商品を11人の乗組員で輸送できた。
陸路で同じ重量のものを運ぼうとした場合、44台の荷馬車に同数の馬引き、176頭の馬が必要だった。馬には日に何度も水を飲ませ餌をやり、毎晩宿舎で寝泊まりしなければならなかった。p65

分水嶺では荷馬車に積み替えして次の水路に向かい別の舟に乗り換えたり、舟ごと運搬されることもあった。p67

 

第五章 さまざまな取引商品
・毛織物
・香辛料
肉の保存、臭い消しのために香辛料を重用したというより、その独特の風味と異国情緒により、人々の東方に対する幻想を駆り立て魅了した。消費者の高い地位を顕示するとともに、医薬として用いられることもあった。肉を保存するには、塩漬け、乾燥、燻製などの方法をとればよかった。p93-94
・麦類や豆類の穀物
・魚類
・ワイン、ビール
・琥珀
・蜜蠟
ミツバチの巣を圧搾・加熱して搾取される蠟。カトリック教会で使用される蝋燭の原料などと使われた。p105

 

第六章 新時代に向かう商人たち
大航海時代へ

 

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独仏国境の街ケールの教会

2023-04-02 06:48:17 | ヨーロッパ旅行記

 

ドイツの国境の街ケールのプロテスタント教会です。
以前に紹介した母なるキンツィヒの記念碑と同じくマルクト広場に建てられています。
名称はドイツ語なのでよくわからないのですが、Googleマップを見ると福音教会や平和教会という訳になっていました。
ケールの街は1683年にストラスブールの橋頭堡として、かのヴォーバンの手により要塞化されたそうですが、この教会は要塞の土台の上に建てられているそうです。
1847年9月24日に礎石が据えられ、1851年7月27日に奉献されました。
その後三度の戦争、とすると普仏戦争、第一次、第二次世界大戦でしょうか、を経験しますが、比較的に無傷だったようです。
激戦地だったと思うのですが、建物自体の被害が少なかったのは奇跡的なことに思えます。
過去の壮絶な歴史をくぐり抜け、現在は独仏の平和な青空のもと、広場にたたずむ人たちを静かに見つめ続けています。

(主にGoogleマップの自動翻訳されたクチコミを参考にしました)

 

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