ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

フランス文化と風景(上)先史時代から15世紀まで 第Ⅰ部 森林の時代からローマ帝国へ

2023-06-04 20:01:42 | ヨーロッパあれこれ

 

フランス文化と風景 (上) 先史時代から15世紀まで

ジャン=ロベール・ピット 著

高橋伸夫・手塚章 訳

東洋書林 発行

1998年7月25日 第1刷 発行

 

日本語版読者への序言

現在、歴史的建造物に何か新しい構築物を付加する場合、中立的な材質ということで、しばしばガラスが使われるようになった。その具体例は、ルーブル美術館のガラスのピラミッドや、リヨンのオペラ座に付加されたガラスの丸屋根に見ることが出来る。

(オランジュの古代劇場の天井にもガラスが使われていました)

 

ルイ14世やナポレオン三世と同じように、ミッテラン大統領は二度の任期を権威的な大建造物で飾り立てることに熱心だった。

国立図書館や大蔵省、新オペラ座(バスティーユ)、アラブ世界研究所、新凱旋門ビル(デファンス)、ルーブルのガラスのピラミッドなど。

これらの建造物は、どれをとっても莫大な財政支出を必要とし、その運営にも予想以上の費用が掛かった。こうした大事業を、社会党出身のミッテラン大統領が推進したのは奇妙な事実と言える。

 

序章 景観論の諸相

フランスの国境を挟む二地域の間には、差異よりも類似性の方が目立っている。しかしひとたび国境から遠ざかると、他では見られない多様な風景のモザイクに出会うことになる。p2

 

景観は、自然と技術と文化の複合体であり、その地表における観察可能な姿である。

景観は人類の自由な営みを表現している。すなわちそれは、人類がつづった美しい「詩」なのである。p18

 

第Ⅰ部 森林の時代からローマ帝国へ

第一章 最初の耕地の出現

フランス新石器時代

地中海東部のカルディア土器文化(紀元前6~4千年紀)からシャセイ文化へ(紀元前4~3千年紀)牛の飼育と穀物(小麦、大麦)栽培に特徴

紀元前4千年頃、パリ盆地やロワール地方にに進出したドナウ文化

巨石文化(紀元前4~3千年紀)

 

第二章 原史時代の都市と農村

ガリア人たちは、疲れを知らない開拓者だった。詩人のランボーは、彼らのことを「最も見事な草焼き人」と表現したが、本当に草を焼いたかどうかはわからないが、木を焼く人々だったことは確かである。p53-54

 

カエサルは、ガリアの農村集落について、たがいに密接に関連する二つの形態を指摘した。

孤立大農場(aedificium)社会的に重要な役割を演じたガリア人の貴族たちが住む

村落(vicus)領主や農場主に隷属していた一般農民が居住p56-57

 

第三章 「ローマ」都市の建設

ローマ人によるガリアの征服は、フランス国土の最初の政治的統一をもたらした。それはまた、何世紀にもわたって、人間の意思にもとづいたある種の風景の画一化をもたらした。こうした時期は、その後、産業革命の前までもはや繰り返されることはなかった。p75

 

全体としてみると、ローヌ川沿いの都市が恵まれていたリヨン、ヴィエンヌ、アルル、ニームの四都市には、劇場・円形闘技場・競技場・音楽堂のうち、三つ以上が存在した。こういう特権を享受した都市は、あとはパリだけだった。劇場が現在のラシーヌ通り、円形闘技場兼劇場がモンジュ通り、競技場が旧ブドウ酒市場にあった。p97

 

ポン=デュ=ガールの建設は従来言われていたようにアウグストゥスの時代(紀元前16~13年)ではなく、皇帝トラヤヌスの時代(紀元後二世紀の初頭)に行われたと考えられている。重さが6トンにもなる切り石を、水面から40メートルの高さまで持ち上げる機械は、トラヤヌスの時代まで存在しなかったと思われるからである。p99-100

 

第四章 ガロ=ロマン期の農村景観

景観の画一化に対するローマ人の熱意がもっとも顕著に表れたのは、おそらくケントゥリアと呼ばれる土地割の方式においてであろう。これは、土地の所有区間を、等間隔の碁盤目状に区切るものだった。

 

ケントゥリアに関する資料

・測量技師たちが著した手引書

・空中写真

・オランジュの土地台帳

 

オランジュの土地台帳は、皇帝ウェスパシアヌスの時代に、フォーラムか近くの壁に設置された三枚の巨大な大理石盤。第一級の価値があるが、きわめて不完全。

(オランジュの歴史を調べていたとき、出てきました)

 

ケントゥリアは、計画的な都市建設や道路建設とともに、地域空間の本当の意味での組織化をよく示している。それはまた、入念に準備された徴税システムの反映であり、かつ人間の活動を宇宙の法則と調和させるという宗教的な信念をも反映していた。

日本の条里ともしばしば比較されてきた。

フランスでは、以後の歴史を通じて、これだけ大規模な風景の規格化は、二度と行われなかった。p115

 

イタリアのブドウ栽培者の圧力と、ブドウ酒生産によって脅かされた穀物生産の水準を維持するために、皇帝ドミディアヌスは、西暦92年にブドウ樹の半分以上を抜根することを命じた。

ちなみにこれによって、ガリア産ワインの品質は著しく向上した。

ガリア人たちが「いじめ」と感じたこの命令は、皇帝プロプスによって西暦276年に取り消された。

 

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イザベラ・バードと日本の旅

2023-06-01 20:54:54 | ヨーロッパあれこれ

 

イザベラ・バードと日本の旅

金坂清則 著

平凡社新書754

2014年10月15日 初版第1刷発行

 

明治初期に日本を旅したヴィクトリア朝のイギリス女性イザベラ・バード。

彼女の一生と他の探検について、また日本旅行の背景について、きっちりまとめられています。

 

第一章 旅と旅行記を正しく理解するために

イザベラ・バードの日本の旅は日光から東北を経て北海道に達し、アイヌの村を訪問するものだった、と思われているが、関西や伊勢神宮も訪ねている。

 

原著に記された言葉をどう訳すか?

原文=直訳=実際の意味

hat=帽子=菅笠

glazed peaked hats=つやのある山形の帽子=陣笠

trousers=ズボン=モンペ

open shirt=前の開いたシャツ=襦袢

a red blanket=赤い毛布=赤い脚絆

short petticoat=短い下スカート=腰巻

地名の例

western Japan=西日本=本州西岸

Mountain Breeze=山風=山吹

Table=卓=台にちなむ地名

 

第二章 イザベラ・バード 旅の生涯

1 誕生からカナダ・アメリカの旅まで 第Ⅰ期の旅

1831年牧師の娘として誕生

1854年、22歳の時、アメリカとカナダの旅

健康回復のために大洋の航海を伴うたびに両親が医者から勧められた。当時このような療法があった。

 

2 オーストラリア、ハワイ諸島、ロッキー山脈そして日本の旅 第Ⅱ期、第Ⅲ期の旅

ニュージーランドからホノルルまでの途中、激しいハリケーンに見舞われるが、その危機がかえって心身の健康に役立つことを確信する。p50

 

ロッキー山脈における、ジム・ニュージェントとの出会いと旅の創造と愛

 

日本の旅は北海道方面や関西・伊勢神宮方面だけでなく、東京にも50日、総滞在日数の四分の一を過ごしていた。旅は三つから成っていた。p74

 

3 日本の旅以後の展開と晩年の活動 第Ⅲ期後半から第Ⅳ期の旅

帰路におけるマレー半島とシナイ半島

妹の死、『日本奥地紀行』の出版、結婚と夫の死

アイルランドの旅

小チベット、ペルシャ・クルディスタンの旅は英国という国家のロシアとの覇権争い、グレート・ゲームと結びつく

朝鮮、ロシア領満州、中国の旅はグレート・ゲームだけでなくキリスト教伝道の舞台としても重要

 

イザベラをフェミニストではなく、伝道擁護者の一人とみなす。p104

 

第三章 1878年の日本の旅の特質

バードの旅は、外国人が自由に旅=移動できる範囲が限られた時代にあって、地域的制限を受けない旅だったという点で、極めて特異だった。

 

通訳兼従者を従えた旅

18歳の少年と信じられていたが、18歳は満年齢をそのまま当てはめ、少年は(boy)従者を取り違えた誤訳

イトこと伊藤鶴吉はバードとの旅行の経験を糧として日本の通訳ガイドの先達として長く活躍した人物。当時数えで21歳、満でも19歳

 

事前にルートを設定

 

英国大使館を最重要拠点として行った旅

 

日本の旅はキリスト教(プロテスタント)の普及と伝道の可能性をさぐる旅だったのでは?

 

日本の旅行記は手紙形式で書かれていたが、実際に旅先から手紙を送ったわけではなかった。p155

 

バードの旅は、新聞という新しい伝達手段によって、当該府県の社会に伝えられていた。p159

 

詳しい日本地図など、用意万端整えられた旅

 

アイヌ社会の特質を明らかにし、伝道の可能性を探る旅

 

第四章 連携する支援と協力

1 パークス公使夫妻の支援

 

2 その他の支援と協力

日本語書記官サトウと三人の領事

キリスト教伝道に携わる組織と人々の支援

お雇い外国人、チェンバレンなどの支援

日本側の支援、外務省、開拓史、内務省

 

第五章 日本の旅と旅行記がもたらしたもの

1 バードと関連者にとっての意義

バードにとって、日本旅行は旅の人生における最大の転換点になり、これを礎に旅を重ね、旅の成果を出していった。p239

チェンバレンにとっては、特にアイヌに関する成果を知ったことが大きい。p242

伊藤鶴吉は、歴史の藻屑と消えたなどという関川夏央の見解があったが、実際はそうではなく、1913年に亡くなった時、「通訳の名人逝く」「ガイドの元祖、日本一の通弁」などの大きな訃報が出た人だった。

 

2 バードの旅と旅行記が欧米にもたらしたもの

 

3 蘇った旅行記を真に理解に、楽しむために

高梨本『日本奥地紀行』は画期的だったが、簡略本を底本としているため、真の姿が理解できず、歴史地理学的研究を踏まえずに翻訳したため、旅の本質の理解が不十分だった。

 

とがった形の奇妙な富士山の挿絵

ジム・ニュージェントと登攀したロングスピークの情景がもとになっているのでは?

 

 

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