ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

フランス文化と風景(上) 第Ⅱ部 実用主義の時代

2023-06-05 21:11:45 | フランス物語

第Ⅱ部 実用主義の時代

第五章 中世初期の大きな変動

うっそうとした森林は、騎馬部隊の襲来に対する有効な備えだった。森林をそうした状態に維持するためには、林間放牧や下草刈り、枝おろし、樹木の伐採などを避けなければならなかった。防御のために保護された大森林地帯は、中央ヨーロッパ全域と同じように、フランク王国の各地で見られた。p135

 

第六章 中世における農村景観のモザイク

開墾の進展のさまざまな原因

・人口の増加を背景にした耕地拡大の欲求

・修道会の発展

・耕起用の道具の改良p160

 

生け垣が家畜の柵という説にも欠点がある。

「厚い胸垂れの上にのんびりよだれを垂らすシャロレー種の物静かな牛」ならば生け垣も可能だろうが、「いたずら好きなブルトン種の雌牛」にとっては生け垣はおそまつな囲いでしかない。p178

 

司教座、修道院、城館という三つの拠点に加えて、あらゆる都市の周辺でもブドウ栽培が多かれ少なかれ行われた。消費市場への近接性や、その市場が要求するワインの質が、自然環境的な条件以上に、ブドウ畑の立地を規定した。p188

 

ブドウ樹を支える添木や、ワイン醸造に関連する木製品のために、大量の木材が必要だった。そのため、ブドウ栽培地域の近くには、栗や柳やナラの大きな林が形成された。p191

 

第七章 農村の建造物と集落景観

控えめで謙虚、素朴な初期ロマネスク建築に続いて、壮麗で自信に満ちた新しいロマネスク建築が現れた。それは全ヨーロッパで三千におよぶ修道院を生み出したクリュニー会と結びついていた。p201

 

クリュニー修道会の華美に流れる傾向を痛烈に批判したシトー派。その修道院は出来るだけ簡素な建築を志向した。p203

 

第八章 中世の都市空間

ニームの円形闘技場

六世紀 西ゴート族によって城砦に変えられた

737年 サラセン人が同じように利用して、カール・マルテルの軍勢を撃退する

九世紀~十三世紀 カロリング朝の貴族がここに居を構え、本格的な城砦として整備される

ニームの市街地が城壁で囲まれると、城砦としての役割は消滅し、大勢の人が住み着き、家を建てるようになる

中央にサン・マルタン教会が建設されるp222

 

元来の姿をあまり尊重しない再利用のおかげで保存された記念建造物がある。

一方で、多くの大建造物は、採石場として一部の石材が運び去られたのちに、徐々に埋もれて忘れ去られた。p224

 

異民族の侵入という大動乱期を通じて、古代世界を支えた柱のうち、キリスト教だけが生き延びた。

ガロ=ロマン期の農村集落がほとんど消滅したのに対して、都市の多くが生き延びたのは、その大半に司教座が置かれたためである。p224

 

都市計画という言葉が明確な意図のもと都市を建設することを意味するならば、フランス南西部に創設された城砦都市(バスティード)を除いて、中世のフランスには都市計画は存在しなかった。p232

 

大聖堂の前には、非常に小さな広場しかないことが多かった。したがって、大聖堂のファサードを少し離れたところから眺めるようなことは不可能だった。

そもそも大聖堂のファサードは、そうした目的で作られたものではなかった。むしろ逆に、聖書や教理問答の場面をごく近くから見るように作られたのである。

ブールジュでは、こうした中世的規模の聖堂前広場を今なお見ることができる。

大聖堂の前に大きな広場がいらないのは、民衆が大聖堂の中に入れたからである。p238

 

多くの大聖堂において、最も神聖な場所である内陣は東に面していた。それは、ちょうどガロ=ロマン期に建設された多くの都市で、主軸街路の一つ(デクマヌス)が指していた方向と同じだった。

東はエルサレムの方向であり、同時に日の出の太陽(キリストの象徴でもある)の方向でもあった。

さらに、パリのノートルダム大聖堂の場合、東はセーヌ川が流れ来る方向でもあった。

セーヌは聖所から流れ来る聖水の流れを象徴していた。それは、大聖堂の外陣(身廊)に参集した信徒たちをうるおし、次いで世俗的な施設が集中するシテ島の川下側(西側)を浸し、さらにパリ市街の全体を浄化した。

中世の都市住民にとって、こうした象徴体系は心の中に深く刻まれていた。p242

 

ヨーロッパの他の国々と比べてフランスは、ゴシック様式の大聖堂の数がとりわけ多い。これらの大建造物はフランスの象徴であり、近代にいたるまで「ゴシック様式」ではなく「フランス様式」という表現が使われたほどだった。

それはイル=ド=フランス地方で開花し、次いで隣接する諸地方に広まったが、南フランスには最後まであまり普及しなかった。p244

 

都市を定義する最も適切な判断基準は、托鉢修道会の存在だろう。p246

 

しかし、全ての都市で「聖なるもの」が景観の中心に位置したわけではなかった。世俗的価値が高まる前兆は、いくつかの都市で認められた。

フランドル地方の諸都市では、世俗的な場所にすでに都市の中心が移行していた。

市役所の鐘楼や世俗的な広場が都市の中核を占める領域は、すでにコンピエーニュからはじまっていた。

 

 

ヨーロッパで最大級の反映と規模を誇ったパリだったが、市役所に関しては、小都市のコンピエーニュの方が、すっと威厳に富んだ市役所をもっていた。

おそらくそれは、同じパリの町中に、大建造物に陣取る対抗勢力が生まれることを国王が望まなかったためであろう。パリの中で最大かつ最高の世俗的建物はシテ島に存在する王宮でなければなからかった。

王宮の中のサント=シャペルは、聖王ルイが聖遺物「キリストのけい冠」を安置するために建設したもので、全ヨーロッパの賛嘆の的だった。

また、時間を管理する役割も、パリでは国王が握っていた。

アヴィニョンの教皇宮殿が十四世紀に建設されるまで、パリの王宮はヨーロッパ最大の宮殿であり続けた。