ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

フランス文化と風景(下)16世紀から現代まで 第Ⅱ部 工業的様式

2023-06-19 20:37:21 | フランス物語

第Ⅱ部 工業的様式
第四章 初期の工業景観
工業化の時代に入ってからは、風景が突如として変わり、その規模も昔とは比べ物にならなくなった。
それまで最も大規模な建築物は、古代ローマ期の円形闘技場であり、中世の大聖堂であり、近世のヴェルサイユ宮殿くらいのものだった。p114

より安価でしかも工場建築に適した資材を、工場は自らの手で生産するようになった。
すなわち、レンガがこれである。フランスのどの地方でも、石切り場が閉鎖されたり縮小される一方で、レンガ工場が開設されたり、あるいは大々的に拡張された。p123

鉄は新しい時代の主要な生産物であるが、同時にそれは生産用具であり、工業化期以降のあらゆる風景にその刻印が押されることとなった。
鉄はいわば全能なる工業のシンボルと言えた。p125

ヴァンスノは、旧市街地の端からディジョン駅に向けて延びる街区を、彼独特の表現で次のように模写している。
「うら若い乙女が、障害物を乗り越えて愛人のもとに駆け寄るように、うるわしのディジョンは重くいかつい城壁を内側から打ち破り、あわただしく鉄道に近づいて、それを抱擁した。こうして鉄道は、ディジョンに生命を与えた。」p131
(こういうぶっとんだ文章をまじめな本の中で発見すると、さらにうれしくなります)

ジャン=バディスト・ゴダンが建設したギーズのファミリーステール(共同体住宅)
託児所や集会室、優れた衛生施設などを備えたファミリーステールは、集合的な社会住宅としてフランスでは稀な成功例だった。p138

第五章 十九世紀の農村景観と都市景観
森林は、フランス革命期から第一帝政期にかけて、ふたたび受難の時を迎えた。それはまさに、金の卵を産む雌鶏を大虐殺するようなものだった。p143

1863年からブドウ栽培地に蔓延したブドウアブラムシにより大被害を受けた。
この時期に、病気に弱いブドウ株が抜根され改植が進んだが、そうして成立した新しいブドウ畑では、ブドウ畑が整然と列をなして配置された。
それまでに見られた「取り木」による繁殖法は、この時期以降、接ぎ木法と両立しないため完全に姿を消した。
ブドウ畑の風景は、これ以降、列状に張られた針金に沿ってブドウの枝が伸びるという現在のような姿に転換した。p153

オスマンの都市計画は、何よりもまず衛生と実用、場合によっては治安の維持を重視した点で、古代ローマの都市計画とは地球の表と裏ほど異なっている。そこには「聖」の視点が全く見られず、本来的な意味での「政治」の視点さえ欠けている。p157

オスマンの街路の中で最大の成功例は、疑問の余地なくアンペラトリス(皇后)通り(現在のフォッシュ通り)であろう。
威厳に満ちたこの通りは、その両端に斜め凱旋門の異様な姿とブーローニュの森をひかえている。p161

十九世紀になるまで、フランスでは文化遺産としての風景という概念が存在しなかった。
どの時代も、古いスタイルの建物や都市を無造作に破壊、変形してきたし、農村景観や自然景観についてはなおさらだった。
態度がもっと慎重になるのはルネサンスの以降、とりわけ啓蒙主義の世紀(十八世紀)である。p165

ヴィオレ=ルデュックの仕事に対しては、しばしば行き過ぎた修復という非難が投げかけられた。
しかし彼は、中世建築の精神をよく理解していた。この点については、誰も異議を唱えないであろう。それにもかかわらず、修復対象の建物に対して自分の刻印を残すことに熱心だった。p167

イギリス人キャヴェンディシュ卿が地中海の温和な気候を求めて1731年の冬をニースで過ごしたことが、ここをヨーロッパでも有数の観光地に押し上げた。
1820年からは、海辺に沿って「イギリス人の散歩道」という名の大通りが整備された。p171

第六章 「月並み」な風景への道
十九世紀の末頃から、ひとつの技術が建築のあり方を大きく変えるようになる。それは1867年にジョゼフ・モニエが生み出した鉄筋コンクリートだった。p175

ル・コルビュジェは家屋という用語の代わりに「居住機械」という語を用い、人類の画一化を推し進めようとした。
都市景観の作り手であるインテリたちの夢と欲求に対応してアテネ憲章が描いてみせた都市の景観は、すぐれて全体主義的な社会観にマッチしていた。p181
そこには住み手の意思が奇妙なほど軽んじられており、住民はインテリの頭脳が生み出した国際規格の理想都市に、単に適応するだけの存在とみなされた。
したがって、ル・コルビュジェやその追随者たちが熱心に主張し、1945年以降には実際に各地に出現した「輝く都市」の居住者たちが、衛生的なコンクリートあふれる陽光にもかかわらず空虚な気分におちいったという事実は、なんら驚くにあたらない。p182

ル・コルビュジェの集合住宅’(ユニテ・ダビタシオン)に対しては、近年インテリ階層からの需要が増えつつある。
しかし、もともとは庶民階級のために建てられたのであり、最近の動向はむしろ本来的な機能からの転換と言える。
そして、本来的な機能という観点から見ると、失敗は明白だった。
マルセイユのそれは、ふつう「愚か者の家」と呼ばれているほどである。p186
(日本人の高評価は異常なのでしょうね)

フランスの低家賃住宅(HLM)の団地は非行や倦怠を生み出す格好の土壌になった。
なかでもパリ近郊のサルセルは代表的であり、「サルセル病」という言葉は、その住民たちに蔓延する絶望感を示したもので、多かれ少なかれ他の住宅団地にも共通する病理的現象を表現している。p189

進歩主義的都市計画という思想が生み出した果実は、建築や都市計画の中で最も非人間的な作品だったといえる。p190

フランスでも、アメリカ合衆国に数十年遅れて、1960年頃から超高層建造物の建築が、国や自治体や民間ディベロッパーの手で行われるようになった。
すでに1948年には、フランス最初の摩天楼(高度90メートル)が、オーギュスト・ペレによりアミアンで建設されていた。p191

港湾や空港も工業景観と強い結びつきを持っている。とくに近年のそれは、都市から離れた巨大施設という特徴を持つ。
マルセイユ港においても、旧港に隣接したジョリエット地区の人工港が手狭になった結果、さらに離れたラベラ地区やフォス地区に新しい港湾施設が造成されている。p220


山火事による森林破壊が、地中海の沿岸地帯では毎年四万ヘクタールに達している。
誰もが認めているように、山火事の被害がこれほど大きくなったのは、山林の所有者が下草を刈り払うことをほとんどせず、手入れの悪い森林が増えたためである。p229

 


フランス文化と風景(下)16世紀から現代まで 第Ⅰ部

2023-06-17 20:16:54 | フランス物語

 

フランス文化と風景(下) 16世紀から現代まで

ジャン=ロベール・ピット 著

手塚章・高橋伸夫 訳

東洋書林 発行

1998年7月25日 第1刷発行

 

第Ⅰ部 実用主義の時代(続き)

第一章 ルネサンス時代の「擬古代」的都市建設

十五世紀のイタリアは、建築と都市建設の分野に革命的な変化をもたらした。

しかしフランスは都市建設の実態も、またその根底にある都市建設の理念も、依然として中世的なままにとどまった。

この時期のフランス建築を特徴づけたフランボワイヤン様式は、本質的にはゴシック様式を発展させたものである。p2

しかしイタリア戦争によって、このような状況は一変する。シャルル八世は、イタリアでの戦いから1495年にフランスへ帰国したが、王自身と彼に随行した貴族たちは、新しく様変わりしたイタリアの都市に触れて、みな驚嘆の念にかられていた。p3

 

十六世紀前半という時代は次のように要約できる。

フランス人は新しい様式を発見し、同化しようと努力した。

そしてイタリア人は情報をもたらし、求めに応じて建築した。

また、中世の様式が否定されたわけではなく、この時代を通じて健在だった。p5

 

直線的な街路とパースペクティブに対する十六世紀初頭の関心は、美的な面と政治的な面という二重の意味合いをもっていた。

それは君主制と密接に結びついており、国王は自分の尊厳をたくみに表現できる新しい様式を求めた。p10

 

イタリアに発想の源があるにもかかわらず、ルネサンス様式の建造物は、イタリアの隣接地域でほとんど見ることが出来ない。その理由は単純で、宮廷の主要な有力者がフランスの北部と西部の出身者ばかりだったからである。p11

 

大聖堂には個人の刻印がほとんど感じられない。大聖堂の建造には、寄贈や労働という形で全ての人々(国王、司教、領主、ブルジョワ、職人そして農民)が参加していた。

これとは対照的に、ルネサンス期の大事業は、有力な個人がみずからの栄光を誇示するために企てられ、有力者たちは著名な建築家の庇護者を演じた。p13

 

第二章 古典主義時代の都市計画

十七世紀のフランスが生み出した代表作ヴェルサイユは、イタリア・ルネサンスの流れに深く根差していた。

たとえば、宮殿の前面に位置するアルム広場と、そこから放射状にのびる三つの大通りは、十六世紀初頭にローマ法王ユリウス二世が建設したポポロ広場と三本の大通りによく似ていた。p44

 

この時期で特筆すべきことは、ルネサンス期以来の傾向が逆転したことである。

フランスは、もはや外国から受容する立場ではなくなった。フランスは、外国に輸出する立場に転じたのである。p46

ヨーロッパの各地にヴェルサイユ風の宮殿と市街が建設された。p47

 

第三章 フランス近世の田園地帯

森林の危機は、まず十六世紀におとずれた。

その背景には、土地生産性の向上よりも耕地面積の拡大を指向した農業発展と、木材を大量に消費する需要者(建築業、海軍、要塞建設、ガラス製造業、なかでも飛躍的に発展しつつあった製鉄業)の存在があった。

このような動向に対して、フランソワ一世やアンリ二世など、狩猟をこよなく愛したフランスの国王たちは、森林の保護を指示する王令を次々に発布し、違反者に厳罰を課すとともに、森林を管理する組織の効率化を推し進めた。p73

 

十九世紀の初めには、イギリスに派遣されたナヴィエによりマカダム工法が導入され、道路の舗装技術が更に改善された。それ以降、道路わきには排水溝が設けられるようになる。p86

(日本の銀の馬車道の工法と同じだと思います)

 

十六世紀から人口増加に対応するため、実を食べるために古くから栽培されてきた栗が、大勢の農民に安定した食料を保証する「恵みの木」となった。

ライ麦に比べて三倍ものカロリーを提供した。p90

 

新しい造園術をもたらしたイギリス人たちは、実のところ、1720年頃からキリスト教の宣教師たちが伝えた中国式の造園術を単に再現しただけだった。p106

 

 


バルカンの花、コーカサスの虹

2023-06-12 20:28:14 | ヨーロッパあれこれ

 

バルカンの花、コーカサスの虹

蔵前仁一 著

旅行人 発行

2014年6月4日 初版第1刷発行

 

2009年のルーマニア、2010年のコーカサス、そして2013年のバルカンの訪問記です。

旅慣れた著者なので、旅自体は戸惑いつつもサクサク進んでいるように見えますが、普通の日本人なら大変な場所なのでしょうね。

 

第1章 バルカンの花

クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、アルバニア、マケドニア、セルビアを五週間でまわる。

 

宗教で民族を決めるのはきわめて特殊なやり方だ。

つまり、セルビア人、クロアチア人、ムスリム人もそれぞれ信仰する宗教が異なるだけで、言葉もほぼ同じスラブ人なのだ。

なお、1993年の第二回ボスニア人会議で、ボスニア・ヘルツェゴビナの公式な民族呼称として、「ムスリム人」に替えて「ボシュニャク人」の呼称が採用されたそうである。p35

 

サラエボには「サラエボのバラ」が咲いていると聞いていた。それはサラエボが迫撃砲で砲撃を受けた際、犠牲者が出た爆撃の跡を赤い科学樹脂で埋めたもの。それが赤いバラのように見えることからそのように呼ばれたのだ。p47

 

モンテネグロはEUに加盟しているわけでもないのに、ユーロが通貨として使用されている。

ユーゴスラビア時代はその通貨ディナール

セルビア・モンテネグロ(新ユーゴスラビア)でセルビア・ディナール

1999年のコソボ紛争でセルビアと対立したらセルビア・ディナールに加えてドイツ・マルクも法定通貨にする

独立の機運が高まった2000年には法定通貨はドイツ・マルクだけになる

ドイツ・マルクがユーロに替わるとそのままユーロ

自国で通貨を作っても、信用度が低いと暴落してハイパーインフレを引き起こす危険性がある。

 

アルバニアの町バルボナの後、首都のティラナに行くとき、いったんコソボに入る。このルートの方が道がいいから。出入国は簡単だったが、パスポートにはしっかり入国スタンプを押された。p78

 

ベラトの町ではホッジャ政権時代、夕方6時から外に出て二時間ほど散歩しなければならないという法律があった。今でも習慣となっているらしい。p86

 

マケドニアのスコピエ

モダンな大都会だが、やたら異様に大きく仰々しいモニュメントが数多く立っている。とにかくモニュメントだらけだ。

 

ベオグラードは圧倒的な大都会。それに比べればスコピエもただの田舎町だ。

そして多くのアールヌーヴォー建築が残っている。

 

第2章 ルーマニア田舎紀行 もう一つのバルカン

チャウシェスクの遺産「国民の館」

 

ロマの豪邸

共産主義体制崩壊すると、廃墟になった工場から高価なスクラップを集め、その取引で富を築く。不思議なデザインの宮殿だが、そこには住まず近くの小さな小屋で生活している

 

オドレイウ・セクイエスクというハンガリー人が多く住む町

その中で鳩小屋はセーケイ人のシンボル

セーケイ人はこの地の先住民で、ハンガリー語と異なる文字(ルーン文字)まで持っていた。

 

あのルーマニア革命は、本当に革命だったのかという声がルーマニアであがっている。

革命だといっているが、結局政権の座に就いたのは共産党幹部。国民に銃を向けた秘密警察や軍の責任者は誰も責任を取っていない。「盗まれた革命」だと主張する人も多い。p190

 

第3章 コーカサスの虹

南コーカサスのアゼルバイジャン、そしてグルジア、次にアルメニアをまわって、再びグルジアに入る。

アゼルバイジャンとアルメニアには紛争状態で国境が開いていない。またアルメニアに最初に入ってしまうと、アゼルバイジャンには入国できない恐れがあるので、こういうコースをとるしかない。p199

 

カスピ海は世界最大の塩湖となっているが、実は海なのか湖なのかという問題が持ち上がっている。

もしカスピ海が湖であるなら、沿岸国の共同管理となり、資源は平等に分配される。

しかし海なら国際海洋条約が適用されて、沿岸国の領海が設定される。

そうなると領海内の石油資源は当然その国が独占できる。

イランの領海には油田はないため湖と主張しているが、アゼルバイジャン、ロシア、カザフスタンは海だと主張している。p202

 

アゼルバイジャンのコーカサス山脈の東端に位置するフナルッグ村

フナルッグはその特異な言語で知られている。フナルッグ語はアゼルバイジャン語とは全く異なり、話し手はフナルッグ村と隣村しかいないほどの極少数民族の言語

 

石油などの天然資源の輸出によって自国通貨が強くなった結果、国内製造業の輸出競争力が失われ、長期的な経済成長が阻害されることを、経済学用語で「オランダ病」という。アゼルバイジャンはそれであり、貧富の差も拡大している。p214

 

アゼルバイジャンのラヒック

およそ千年前に、イランのカスピ海沿岸の町から、この地に多くの人々が移民してきた。

その移民たちの中に優秀な銅鍛冶の職人が多かったので、その技術がこの山間の村に持ち込まれた。

このラヒックの人々が話す言葉は、アゼルバイジャン語よりもペルシャ語に近い。p218-219

 

アゼルバイジャンのシェキ

シルクロードの中継地として栄えた。

コーカサス最大の隊商宿が設けられていた。

そこが現在は「ホテル・キャラバンサライ」という観光スポットでもあるホテルになっている。p223

 

アルメニアでは、アゼルバイジャンに行ったことは問題視されない。ナゴルノ・カラバフをアルメニアの一部にしてしまった勝者の余裕だろうか。p227

 

アララト山はアルメニア人にとっては民族のシンボルで、オスマン帝国時代も、このあたりに多くのアルメニア人が住んでいた。しかしアルメニア人大虐殺が発生するにおよび、生き残ったアルメニア人もこの地を離れてしまった。

アララト山はアルメニア人の悲劇の歴史や民族の痛みを背負ったところでもある。p251

 

アルメニアのゴリス

1920年にアルメニア民主共和国が崩壊した際に、この一帯はアルメニア山岳共和国として独立し、その首都となった。p263

 

グルジアはワインで有名な国だけあって、グルジアの宿の食事はどこでもワインが飲み放題だ。p281

 

 


太田和彦 著 書を置いて、街へ出よう

2023-06-07 20:17:12 | 小説

 

書を置いて、街へ出よう

太田和彦 著

晶文社 発行

2023年2月10日 初版

 

居酒屋番組でお馴染みの太田和彦さんの新刊書です。

散歩や舞台鑑賞、そして銀座など、様々な場所を訪問しています。

自分は居酒屋とかにはほとんど行かないないので、番組の前半の街ぶらを主に楽しく観ているのですが、この本でも、その時の雰囲気が味わえます。

太田さんは上品で粋なのですが、キザではないのがいいですね。やはり年の功でしょうか(笑)。

自分にとっては、広い意味での街ぶら番組の四天王の一人になっています(他の人については後日書きます)。

太田さんのように、上手に人生を楽しめるように、年を取っていきたいものです。

まずは何よりも健康だなあ・・・。

 


フランス文化と風景(上) 第Ⅱ部 実用主義の時代

2023-06-05 21:11:45 | フランス物語

第Ⅱ部 実用主義の時代

第五章 中世初期の大きな変動

うっそうとした森林は、騎馬部隊の襲来に対する有効な備えだった。森林をそうした状態に維持するためには、林間放牧や下草刈り、枝おろし、樹木の伐採などを避けなければならなかった。防御のために保護された大森林地帯は、中央ヨーロッパ全域と同じように、フランク王国の各地で見られた。p135

 

第六章 中世における農村景観のモザイク

開墾の進展のさまざまな原因

・人口の増加を背景にした耕地拡大の欲求

・修道会の発展

・耕起用の道具の改良p160

 

生け垣が家畜の柵という説にも欠点がある。

「厚い胸垂れの上にのんびりよだれを垂らすシャロレー種の物静かな牛」ならば生け垣も可能だろうが、「いたずら好きなブルトン種の雌牛」にとっては生け垣はおそまつな囲いでしかない。p178

 

司教座、修道院、城館という三つの拠点に加えて、あらゆる都市の周辺でもブドウ栽培が多かれ少なかれ行われた。消費市場への近接性や、その市場が要求するワインの質が、自然環境的な条件以上に、ブドウ畑の立地を規定した。p188

 

ブドウ樹を支える添木や、ワイン醸造に関連する木製品のために、大量の木材が必要だった。そのため、ブドウ栽培地域の近くには、栗や柳やナラの大きな林が形成された。p191

 

第七章 農村の建造物と集落景観

控えめで謙虚、素朴な初期ロマネスク建築に続いて、壮麗で自信に満ちた新しいロマネスク建築が現れた。それは全ヨーロッパで三千におよぶ修道院を生み出したクリュニー会と結びついていた。p201

 

クリュニー修道会の華美に流れる傾向を痛烈に批判したシトー派。その修道院は出来るだけ簡素な建築を志向した。p203

 

第八章 中世の都市空間

ニームの円形闘技場

六世紀 西ゴート族によって城砦に変えられた

737年 サラセン人が同じように利用して、カール・マルテルの軍勢を撃退する

九世紀~十三世紀 カロリング朝の貴族がここに居を構え、本格的な城砦として整備される

ニームの市街地が城壁で囲まれると、城砦としての役割は消滅し、大勢の人が住み着き、家を建てるようになる

中央にサン・マルタン教会が建設されるp222

 

元来の姿をあまり尊重しない再利用のおかげで保存された記念建造物がある。

一方で、多くの大建造物は、採石場として一部の石材が運び去られたのちに、徐々に埋もれて忘れ去られた。p224

 

異民族の侵入という大動乱期を通じて、古代世界を支えた柱のうち、キリスト教だけが生き延びた。

ガロ=ロマン期の農村集落がほとんど消滅したのに対して、都市の多くが生き延びたのは、その大半に司教座が置かれたためである。p224

 

都市計画という言葉が明確な意図のもと都市を建設することを意味するならば、フランス南西部に創設された城砦都市(バスティード)を除いて、中世のフランスには都市計画は存在しなかった。p232

 

大聖堂の前には、非常に小さな広場しかないことが多かった。したがって、大聖堂のファサードを少し離れたところから眺めるようなことは不可能だった。

そもそも大聖堂のファサードは、そうした目的で作られたものではなかった。むしろ逆に、聖書や教理問答の場面をごく近くから見るように作られたのである。

ブールジュでは、こうした中世的規模の聖堂前広場を今なお見ることができる。

大聖堂の前に大きな広場がいらないのは、民衆が大聖堂の中に入れたからである。p238

 

多くの大聖堂において、最も神聖な場所である内陣は東に面していた。それは、ちょうどガロ=ロマン期に建設された多くの都市で、主軸街路の一つ(デクマヌス)が指していた方向と同じだった。

東はエルサレムの方向であり、同時に日の出の太陽(キリストの象徴でもある)の方向でもあった。

さらに、パリのノートルダム大聖堂の場合、東はセーヌ川が流れ来る方向でもあった。

セーヌは聖所から流れ来る聖水の流れを象徴していた。それは、大聖堂の外陣(身廊)に参集した信徒たちをうるおし、次いで世俗的な施設が集中するシテ島の川下側(西側)を浸し、さらにパリ市街の全体を浄化した。

中世の都市住民にとって、こうした象徴体系は心の中に深く刻まれていた。p242

 

ヨーロッパの他の国々と比べてフランスは、ゴシック様式の大聖堂の数がとりわけ多い。これらの大建造物はフランスの象徴であり、近代にいたるまで「ゴシック様式」ではなく「フランス様式」という表現が使われたほどだった。

それはイル=ド=フランス地方で開花し、次いで隣接する諸地方に広まったが、南フランスには最後まであまり普及しなかった。p244

 

都市を定義する最も適切な判断基準は、托鉢修道会の存在だろう。p246

 

しかし、全ての都市で「聖なるもの」が景観の中心に位置したわけではなかった。世俗的価値が高まる前兆は、いくつかの都市で認められた。

フランドル地方の諸都市では、世俗的な場所にすでに都市の中心が移行していた。

市役所の鐘楼や世俗的な広場が都市の中核を占める領域は、すでにコンピエーニュからはじまっていた。

 

 

ヨーロッパで最大級の反映と規模を誇ったパリだったが、市役所に関しては、小都市のコンピエーニュの方が、すっと威厳に富んだ市役所をもっていた。

おそらくそれは、同じパリの町中に、大建造物に陣取る対抗勢力が生まれることを国王が望まなかったためであろう。パリの中で最大かつ最高の世俗的建物はシテ島に存在する王宮でなければなからかった。

王宮の中のサント=シャペルは、聖王ルイが聖遺物「キリストのけい冠」を安置するために建設したもので、全ヨーロッパの賛嘆の的だった。

また、時間を管理する役割も、パリでは国王が握っていた。

アヴィニョンの教皇宮殿が十四世紀に建設されるまで、パリの王宮はヨーロッパ最大の宮殿であり続けた。