ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

フン族 謎の古代帝国の興亡史(前半)

2023-11-19 20:31:36 | ヨーロッパあれこれ

フン族 謎の古代帝国の興亡史

E.A.トンプソン 著

木村伸義 訳

法政大学出版局

1999年8月5日 初版第1刷発行

 

序文

本書は

・モンゴリアのフン族ではなく、クバン川流域に居住していたフン族の歴史を創始する

・フン族が四世紀末頃東ゴート王国を攻撃するまでは何ひとつはっきりしていないこと

そして

アッティラのフン帝国崩壊とその直後のくだりをもって終える。

 

第一章 史料

Ⅰ 現在利用不可能な考古学的証拠

Ⅱ アンミアヌス・マルケリヌス

彼は395年頃『ローマ史』31巻を著す。

フン族の歴史はギリシャ人やローマ人旅行家と歴史家の話にのみ依拠している。

フン族は馬で旅をするとき、生肉を鞍と馬の背にはさみ、少し温めて食したとアンミアヌスは言っているが、今日では誤報とされている。p11

Ⅲ テーベ出身のオリュンピオドロス

彼はフン帝国を個人的に訪ねたことを記した最初の旅人。412年頃使節の資格でコンスタンティノープルからフン王ドナトゥスのもとに派遣された。

Ⅳ パニュウム出身のプリスクス

フン族はスキタイ人であるが、全スキタイ人がフン族であったわけではない。p15

フン族と締結した多数の条約について彼が正確な知識を持ち合わせていたのは、フン族に関する公的記録が利用できたからだと思われる。

また作品の中の行事の参加者、例えば通訳のビギラスなど、へのインタビューから苦労して集めたものと考えて差し支えない。

Ⅴ その後の史家

年代記作者はともかく、フン族に関する興味深い情報を提供してくれる後期の歴史家は、こぞってその知識をプリスクスの作品から得ている。

 

第二章 アッティラ以前のフン族史

Ⅰ ローマ人史家のフン族起源説

アンミアヌス曰く

「フン族は古代の記録にはほとんど知られていないが、結氷した大洋に近いマエオティスの湿地帯の彼方に暮らし残忍極まりなかった」

唯一の結論は、フン族が東ゴート帝国を攻撃したいきさつを正確に知るものが五世紀のごく初めにさえいなかった。p23

Ⅱ 四世紀以前の古典文献に欠けるフン族

Ⅲ 東ゴート王国の滅亡

フン族が服属民アラン族の分遣隊を従えて東ゴート王国の富める村落の攻略を開始したのは、370年直後であるといわれている。

Ⅳ フン族、ローマ帝国を攻撃(374-434)

395年になってはじめてローマ帝国の大侵略を開始している。その年の襲撃はアッティラ時代では最大規模であったらしい。

宦官エウトロピウスがゴート軍数部隊と獲得可能なローマ兵を急いで集め、フン族と交戦することに成功した。

それで平和は398年末に東ローマ帝国に戻った。

 

第三章 アッティラ以前のフン族社会

Ⅰ 四世紀におけるフン族の物質文明

物質文明の点では、フン族は前期遊牧文化に属していた。

Ⅱ フン族の社会組織

Ⅲ フン族の人口

Ⅳ フン族の軍事力

フン族はとりわけ馬上の射手であり、弓は非常に特徴的な武器であった。

Ⅴ 王権の発達

Ⅵ フン族社会の変遷

極度に困窮した生活を送っていた遊牧民フン族がドナウ国境地域を挟んだ両地域に一段高度な物質文明を持つ農耕民族と接触するようになると、ゴート人やローマ人からできる限りの食糧や略奪品さらに原初の奢侈品を集めて過酷な生活を少しでも楽にしようとしたのは当然である。

 

第四章 アッティラの勝利

プリスクスの『ビザンティン帝国史』は434年、アッティラがフン族の指導者になった年、から始まっている。

Ⅰ ガリアでのアエスティウスとフン族

Ⅱ フン王ルーアの死

434年の戦闘に入る前にルーアが急死する。

ルーアの後継者は二人の甥、兄のブレダ、弟のアッティラ

Ⅲ マルグス平和条約とフン帝国の膨張

435年、ローマ政府はいわゆるマルグス平和条約に調印

Ⅳ フン族、東ローマ帝国へ侵入(441-443)およびアナトリウス平和条約

アナトリウスの第一回の平和条約が443年秋に批准

Ⅴ 東ローマ帝国の苦悩とフン王ブレダの死

445年にアッティラが兄ブレダを殺害

Ⅵ フン族、東ローマ帝国へ侵入(447年)

東ローマで暮らしたマルケリヌス伯の言葉

「アッティラはおよそ全ヨーロッパを踏みつけて塵芥と化した」

 

第五章 ドナウ国境地での和平

447年の大侵略に続く三年間はフン帝国とローマ帝国間の外交的対立に尽きた。

Ⅰ アカツィール族の征服

Ⅱ 第二回のアナトリウス平和条約

448年、北部国境地帯に平和が戻った。この時のローマ側の交渉者は例のアナトリウスだった。

449年、アッティラの最も有力な副官のひとりエデコがコンスタンティノープルに着く。

エデコにアッティラ暗殺をもちかけるローマ

Ⅲ マクシミヌスの使節とアッティラ暗殺計画

マクシミヌスの使節に随行する史家プリスクス

Ⅳ 第三回と最終回のアナトリウス平和条約

 

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ペトラルカ 生涯と文学

2023-11-13 21:08:11 | ヨーロッパあれこれ

ペトラルカ 生涯と文学

近藤恒一 著

岩波書店 発行

2002年12月20日 第1刷発行

 

ペトラルカの生涯と思想・文学について述べた本格的な入門書です。

イタリア人で、なおかつフランスのアヴィニョンにも深い関りがあったペトラルカに興味を持ち、この本を手に取りました。

戦争やペストによる乱世の中、イタリアやプロヴァンスを中心として、ヨーロッパをさまよわざるを得なかったペトラルカに同情的になってしまいます。

 

まえがき

ダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョ。

十四世紀に活躍したこの三人は、イタリア文学の三巨星をなしているばかりか、それぞれにヨーロッパ文学の最高峰に名を連ねている。

 

ペトラルカは偉大な抒情詩人、叙事詩人であるだけでなく、古典学者・文献学者・歴史家であり、弁論家、哲学者にして宗教文学者、更には考古学者・地理学者・旅行家・登山家・造園家でもあった。リュートの名手でもあった。

 

ペトラルカの生きた十四世紀は、西欧史上で最も悲惨な時代のひとつであった。慢性的な飢餓状態、戦争、そしてペストであった。

 

文芸の革新と再生のための苦闘によって、ルネサンスの幕開けを告げるユマニスム(人文主義)の真の父となり、ルネサンス運動の偉大な先達となる。

 

序章 山頂にて

 一 二つの山頂

南仏プロヴァンスのヴァントゥウ山に登るペトラルカと著者

 二 最初の近代的登山

 三 寓意としての登山

ペトラルカ兄弟の登山ぶりの対比は、二人の対照的な生き方の寓意。まっすぐ高いところを目指す弟に対し、回り道をするペトラルカ

 四 山頂の内省

山頂で、アウグスティヌス『告白』を開くペトラルカ

 

第一章 地上のさすらい人

 一 出生

父の亡命の地アレッツォで生まれるペトラルカ

 二 トスカーナからプロヴァンスへ

乳飲み子の頃から放浪の人生。まずアヴィニョンへ。

 三 キケロとの出会い

早くから、古代ローマ切手の名文家キケロの文体に夢中になるペトラルカ

 四 モンペリエ遊学

法律学習、文学研究への憧憬、母の死

 五 ボローニャ遊学

ローマ法や古代ローマの勉強、母国の俗語文学である清新体派やダンテの抒情詩の研究

 六 無常感

 七 アヴィニョン帰住

父の死

 八 虚栄の生活

 九 ラウラとの出会い

1327年4月6日、アヴィニョンの聖女クララ教会(サント・クレール教会)で、人妻ラウラに出会う。

 十 アウグスティヌスの出会い

剃髪をうけて聖職者になるペトラルカ。自分の文学活動に必要な自由と閑暇のための経済基盤を聖職禄に求める。

教皇書記や司教職を辞退し、司教座聖堂参事会員を各地に求め、自分は任期におもむかず、現地代理人を通じて給与を受け取った。

 

第二章 自由と再生をもとめて

 一 憧憬の地ローマへ

息子誕生に対する罪悪感

 二 隠棲 都市の「虚栄」から森の「孤独」へ

ローマからアヴィニョンに戻ると、寒村ヴォ―クリューズにひきこもる

 三 古代ローマ再生のために 史書と叙事詩

 四 「再生」の祝典 桂冠詩人の誕生

 五 プロヴァンスと祖国のあいだ

二人目の私生児の誕生

キケロ書簡集の発見

六 コーラ革命 ローマの再生とイタリア統一のために

 七 悲惨の年

コーラ革命の挫折とペストの流行

 八 フィレンツェの友人たち

ボッカッチョとの交流

 九 母国フィレンツェからの誘い

 十 最後のプロヴァンス滞在

 

第三章 ラウラ讃歌

 一 ラウラと『俗語断片詩集』

ペトラルカの生涯に運命的な重みをもった出会い

・少年期のキケロ

・青年期のラウラ

・壮年期初期のアウグスティヌス

こんな中で、ラウラは氏素性がはっきりしない。実在の人物でないかもしれない

 二 ラウラ讃歌

 三 内なる葛藤

 四 「港」願望

 五 無常感

 

第四章 「孤独」讃歌

 一 「孤独生活」の日常

 二 「孤独生活」と「都市生活」

 三 「孤独」の思想 「孤独」の意味の深化

 四 「人間的」交わりのために

 五 文学活動の場

 六 人間性の涵養

 七 文学的工房

ペトラルカの文学的工房は、研究・著作活動の場であるばかりか、古典収集活動の根拠地であり、良質の写本をつくりだす工房でもあった。

 八 「孤独生活」の宿命

写字生や使用人や召使いにより、孤独生活は都市生活の縮刷版になってしまう。

 

第五章 都市の「孤独」を求めて 北イタリア彷徨

 一 ミラノ移住 森の「孤独」から都市の「孤独」

共和制だった都市コムーネは一般に、十三世紀後半から徐々に有効な統治能力を失い、僭主制に移行して空洞化し、やがて君主制に移行して崩壊する。

 二 反響

ペトラルカのミラノ移住はフィレンツェなどミラノの脅威を感じている諸都市で否定的なものが強かった。

ペトラルカにとって、本当に祖国といえるのは、理想化された古代ローマと一体を成す理念的「イタリア」であり、現存する中小の国家群のいずれでもなかった。

47年のコーラ革命までは共和主義的傾向が強かったのに、その革命の挫折後は君主的傾向を強める。

だから専制政治的下のミラノに住むことは抵抗感なかった。よく統治されているかどうか、治安がよいかどうかであった。

 三 大都市の「孤独」

ヴェネツィアやプラハやパリへの外交使節の任も受ける

ペトラルカの不幸の一因は「詩人の桂冠」にあった。極度に高い「有名」税を支払わされていた。

 四 ペストの惨害

 五 都市の「孤独」をもとめて

 

第六章 文芸復興(ルネサンス)のために ボッカッチョとともに

 一 文学的共同

ペトラルカの二つの歴史的使命

・古代の文化的遺産の継承。現存する古典作品を後世に伝えるだけでなく、忘れられ失われた作品をなるべく発見し、あるいは復元して、後世に伝える

・時代の「不毛」に抗して自分自身の豊かな文学的成果を創出し、後世の人に贈り伝えること

 二 自著の交換

ボッカッチョとの交友

 三 古典文学研究

 四 ギリシャ文芸の復興

 五 安らぎの港をもとめて

 六 ピエトロ・ペトローニ事件

ピエトロ・ペトローニという修道士から自分の死のお告げを聞かされ動転するボッカッチョ

冷静にボッカッチョを諭すペトラルカ

 七 友情の提案

四年ほどペトラルカのもとで写字生の仕事をする優秀なマルバギーニ。しかし四年でペトラルカのもとを離れてしまう。

 八 逆境のボッカッチョ

 九 共同戦線

 十 ユマニスム(人間主義)

 

第七章 丘の「孤独」

 一 都市の「孤独」から丘の「孤独」へ

1370年、六十歳代なかばにアルクアの山荘に終の棲家を定める

 二 政治参加の軌跡

 三 皇帝と教皇 二つの希望

共和主義の幻想性を嫌というほど思い知らされたペトラルカ。そして君主主義的傾向を強める。

この点、十六世紀のマキアヴェッリを先取りしていた。

神聖ローマ皇帝カール四世や教皇にローマ帰還を訴える。

 四 教皇のローマ帰還のために

 五 最後の希望 フマニタス(人間性)研究

 六 巨星逝く

 

終章 ペトラルカとルネサンス

 一 ユマニスムの父

ユマニスムの父でルネサンスの父であるペトラルカ

 二 後継者たちの活動

 三 ユマニスムの発展とルネサンス美術の開花

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イタリア中世都市国家研究 清水廣一郎 著

2023-11-10 20:12:27 | ヨーロッパあれこれ

 

イタリア中世都市国家研究

清水廣一郎 著

岩波書店 発行

昭和50年3月28日 第一刷発行

 

内容はかなり専門的です。日本語に当てはめにくいイタリア語の単語が沢山出てきます。

 

一 イタリア中世都市国家の構造

12世紀末の北中部のイタリアの都市国家は、多かれ少なかれ周囲の農村地帯に拡がる領域(コンタード)を持つ領域国家の形態をとっていた。

 

1 十三世紀末の都市

 一 十三世紀後半の政治的経済的状況

 二 都市国家と支配層

 三 都市の領域支配

 

2 十四世紀の危機

 一 経済的後退

 二 コムーネの危機

 

二 十三世紀フィレンツェのコンタードについて

1 史料 Il Libro di Montaperti

2 コンタードの組織

コムーネ期における農村の定住様式

カステッロ・・・城壁ないし柵を備えた防備村落・農村都市

ヴィラ・・・城壁を持たない

3 穀物徴集と保証人

 

三 イタリア中世都市の領域支配

1 コンタード行政の基礎単位

2 コンタード行政の基本的特徴

 一 populus

小教区であると共に、村民集会と村役人を持つ共同体

 二 裁判権の集中

 三 「初期の」civis silvaticus(都市に移住した者)

 四 コンタードのコムーネ

農村都市と戦略拠点としての集落

3 税制の発展

 一 focatico

各戸に課される定額税、nobiles,militesが免除されている

 二 libra

各戸において相対的な資産状況が査定され、これが金額(リブラ)で表示される。

そして財政上の必要が生じた都度、その時の課税率が定められ、各戸の課税標準額に応じて徴税される。

4 十三世紀後半から十四世紀初頭における社会的変化

 

四 十四世紀トスカーナの農村コムーネ

フィレンツェ領の辺境に位置する二つの農村コムーネをとりあげ、十四世紀末に作られたその条例の内容を検討

1 カステルフランコ・ディ・ソプラ

 一 カステッロ

カステッロ(防備集落)を建設し、付近の住民を集住せしめ、もって辺境の防衛と支配のための拠点としようと試みた。

 二 評議会、諸官職について

 三 不法行為と刑罰

 四 都市条例との関係

2 サンタ・マリア・ア・モンテ

 一 カステッロ

 二 評議会、諸官職について

 三 裁判権について

 

五 「チョンピ一揆」に関する二つの記述史料 

1378年7月、フィレンツェで生じた「チョンピ一揆」

小アルティのメンバーや毛織物工業の従属的労働者が蜂起し、オリガルキー派有力者の家を焼き、市庁舎を包囲し、ついにプリオーリを辞任に追い込む。

そしてそれまでアルテを組織することを固く禁じられてきたポポロ・ミヌート、染色職人、仕立て屋などは、それぞれのアルテを形成することにおいて、はじめて政治に参加する資格を獲得した。

さらに、彼らは、財政改革を中心とする一連の請願を提出し、これを法として可決せしめ、オリガルキー支配の都市コムーネに大きな打撃を与えた。

しかしポポロ・ミヌートが都市政治に大きな力を及ぼした期間は、七月末から八月末にいたる一か月余りに過ぎない。

1 Alamanno Acciaiuoliの年代記

パトリチアートの立場から執筆された一揆の責任追及の書

2 無名人の年代記

市庁舎の衛士による書。ポポロ・ミヌートに同情的な唯一の年代記

むすび

チョンピ一揆と総称される政治的変革の多面的性格

・有力市民間の権力闘争

・小アルティのメンバーや羊毛アルテに包摂されていた染色職人や仕立て屋などの手工業者層の権利要求の運動

・ポポロ・ミヌートと呼ばれる従属労働者の抵抗の運動

 

六 十五世紀フィレンツェの税制改革 1427年のカタスト

カタストは従来の税制を改革し、市民および領域住民の資産状態の全般にわたって各人の申告を求め、それに対する査定を行い、その結果を金額によって表示し、k税の基礎とした。

1 都市コムーネの財政構造

2 カタスト成立にいたる政治状勢

3 カタストの内容

4 十五世紀初頭の都市

 

七 十四世紀ピサの農村行政 公証人書式集の研究

一公証人が筆写し、自ら使用していたもの。すなわち、公証人が実務のために作成した稿本であり、条例その他の法文も私撰によるもの

1 研究史概観

p324-325 ピサの中世史

2 ピサのコンタード

3 史料comune A,7

 一 条例

 二 書式集

これは単なる書式集ではなく、「公証人のマニュアル」であり、「コンタード官吏のマニュアル」でもある。

 三 法令

4 カピタニーアの行政

5 公証人について

十三世紀末から十四世紀を通じて、公証人は、中世イタリアのコムーネ世界において経済的にも社会的にも重要な位置を占めていた。

土地、家屋の売買、商品取引、高利貸付、結婚、遺言、会社の成立、土地の賃借、家畜飼育契約、徴税請負契約などの様々な契約を登録簿に記録し続ける。

公証人はコムーネの官職でも活動していた。

 

 

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新版 ヨーロッパの中世(後半)

2023-11-07 20:31:15 | ヨーロッパあれこれ

第11章 新しい宗教生活

1 異端:ワルド派、カタリ派

異端とは、当該の時代や社会において、しかるべき権威によって異端とされたもの

2 托鉢修道会

フランチェスコ会、ドミニコ会、カルメル会、アウグスティヌス隠修士会

3 民衆のキリスト教化

 

第12章 知の世界

1 12世紀ルネサンス

12世紀の新しい息吹をよく示すのは教皇シルウェステル2世の生涯

2 プラトンとアリストテレス

3 スコラ学

スコラ学とは、単一の学派ではなく、さまざまな学派の総称。大学を中心とする学校scholaという場での学問・方法

4 大学

大学とは本来は組合を意味し、教皇や君侯から自治および学位発行の特許状を得て、教員あるいは学生から成る構成員の共通利益を守る。

5 神秘主義

 

第13章 国民国家

1 百年戦争

2 国民国家フランス

3 バラ戦争:イングランド

バラ戦争の名称はランカスター家が記章として赤バラを、ヨーク家が白バラを採用したことに由来する。

 

第14章 それぞれの国制の模索

1 帝国からドイツへ

2 ブルゴーニュ

ブルゴーニュ公国(1363-1477)

この公国は大きな勢力を誇ったが、それは家産としての所領が集積したものに過ぎず、この時代には国家としてのアイデンティティを形成することが出来ず、急速に拡大したが崩れるのも早かった。

3 イタリア

4 スイス

中世においては農耕に適さぬ貧しい土地だったが、ヨーロッパ中心部ゆえ、内陸交通のネットワークに組み込まれ、地中海経済圏と北洋経済圏を結ぶ街道が通っている。

 

第15章 隣人から一員へ

1 北欧

2 東欧

この地域の国々はラテン・カトリック圏と東ローマ帝国・正教圏というふたつの文明圏の間で、どちらを向くか選択を迫られながらアイデンティティを形成した。

3 レコンキスタ

4 コンスタンティノープルの落日

5 帝国の後継者

東ローマの継承者と自称したロシア

それ以上に帝国の伝統を受け継いだオスマン朝

以前、高校世界史などでは、オスマン朝は「オスマン・トルコ」と呼ばれたが、現在では「トルコ」という語は加えられない。それはオスマン朝が「トルコ」という「国民」を当初は前面に押し出さなかったことによる。

 

第16章 中世後期の教会

1 アヴィニョン教皇庁

ローマは混乱していた。またアヴィニョンの方がヨーロッパの交通の要衝といえた

2 教会大分裂

ローマとアヴィニョン、そしてピサ教会会議でも教皇を擁立し、3教皇と3枢機卿団が鼎立した。

3 公会議主義運動

4 「国民教会」に向かって

15世紀の教会大分裂を経て教皇権が衰退し、表舞台に出てくるのが国民教会

ガリカニスム

王権のもとでのガリア(フランス)教会の自由と一体性を唱え教皇権の介入を排除しようとする主張

フス派

この時期の国民教会に向かっての歩みとして忘れてはいけないのは、神学者ヤン・フスを指導者として始まったフス派の運動

 

第17章 衣食住

1 衣服

2 食生活

3 住居

 

第18章 人の一生

1 子ども

2 家族

3 病気

4 不安

戦争、飢餓、疫病、終末論

5 老いと死

 

第19章 宗教改革

1 人文主義

人文主義の歴史における巨人、フランチェスコ・ペトラルカ

彼は俗語文学と古典研究の幕を開ける

2 ルター

3 カール5世

ハプスブルク家最盛期の帝王であるとともに、アイデンティティなき大版図の統治に苦しむ

4 反宗教改革

 

第20章 近代へ

1 古代の再発見

2 大航海時代

3 地図

4 技術そして科学

活版印刷、冶金、医学、天文学

5 人間性の肯定

 

 

 

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新版 ヨーロッパの中世(前半)

2023-11-06 20:05:23 | ヨーロッパあれこれ

 

新版 ヨーロッパの中世

神崎忠昭 著

慶応義塾大学出版会

2022年5月18日 新版第1刷発行

 

本書は大学でヨーロッパ中世史を学ぶ人のための「入口」にあたります、とのことです。

 

イントロダクション

1 時代区分

本書では中世のはじまりはメロヴィング朝のフランク王クローヴィス1世の治世(481-511)で

中世の終わりは15世紀後半から16世紀前半と考える。

 

2 自然条件

 

第1章 大いなるローマ

1 ローマの遺産

2 キリスト教の成立

3 後期ローマ帝国

4 荒れ野に生きる人々

 

第2章 古代世界の終焉とゲルマン人

1 侵入

2 帝国の衰退

異民族の侵入、皇帝の無能、エリート養成の伝統が踏襲されず、社会の硬直化、経済の崩壊、キリスト教、気候変動

3 統合の模索

ヴァンダル人、東ゴート人、西ゴート人

4 ガリア

5 海の彼方

ブリタニア、アイルランド修道士、アングロ・サクソン修道士

6 文化の継承

 

第3章 フランク王国

1 メロヴィング朝

2 カロリング朝の台頭

3 カール大帝

フランク王国の絶頂期を築く

4 カロリング・ルネサンス

5 ベネディクト修道士

6 カロリング朝の退潮

 

第4章 隣人たち

1 コンスタンティノープル

2 イスラーム

3 東欧

アヴァール人、モラヴィア(チェコ)人、ブルガール人、マジャール人

4 ノルマン人

 

第5章 鉄の時代 混乱と再編

1 異民族の侵入

2 封建制

3 荘園と農民

古典荘園制(土地領主制)、バン領主制

4 農業革命

5 平和の回復

農業生産の向上は今度は農民を支配する聖俗領主の経済力を高めた

修道士ラウール・グラベル(980頃-1046頃)

「西暦1000年頃、世界のほとんどすべてのところで、とりわけイタリアとガリアにおいて諸教会堂が新たにされるいうことが起った。あたかも世界そのものがその身を揺り動かして老いを投げ捨て、いたるところで白い衣を纏った如くだった」

 

第6章 皇帝

神聖ローマ帝国は、特に10世紀から13世紀までヨーロッパ史の軸であった。

1 オットー朝

2 帝国教会政策

3 11世紀中葉までのローマ教会

4 カノッサの屈辱

1077年1月グレゴリウス7世はハインリヒ4世との会見を拒否。王は三日待つ。そしてグレゴリウス7世は破門を解いた。

 

第7章 教皇

1 聖職者とは

聖職者とは広い意味では教会に何らかの仕方で属する者の総称。ここでは「秘跡によって叙階されたもの」

司教は司教区内の最高責任者

2 ヒエラルキー

3 教皇権の「絶頂」

インノケンティウス3世(在位1198-1216)の教皇在位期が教皇権の絶頂期

4 帝国の落日

皇帝権の最後の輝きを放つのがフリードリヒ2世

5 アナーニ事件

1303年9月7日フランス王の側近ギヨーム・ド・ノガレは、ボニファティウス8世に苦汁をなめさせられたコロンナ家などのローマ豪族の手勢とともにアナーニを急襲し、教皇を捕虜にした。

教皇権とは権威であって、権力ではない。その力は状況に左右される。

 

第8章 修道士

1 クリュニー

中世を代表する修道院。絶大な権勢を誇る。

2 隠修士

3 シトー会

1098年モレーヌのロベルトゥスが21名の修道士とともに創設したブルゴーニュのシトー修道院が起源

4 修道参事会士

5 戦士のキリスト教化

 

第9章 英仏の葛藤

1 プランタジネット朝

2 カペー家

3 イングランドの混乱と立憲制の萌芽

 

第10章 都市

1 都市とは

2 都市の人々

伯や騎士・専門職・商人・手工業者・同業組合

3 人とモノの動き

4 都市の文化

文字・学校教育・数値・楽しみ

5 アウトサイダーたち

外国人・ユダヤ人・イスラーム教徒・娼婦・貧民・奴隷

 

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