ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

モーツァルトとは何か 池内紀 著

2024-01-12 20:40:40 | ヨーロッパあれこれ

 

モーツァルトとは何か

池内紀 著

文藝春秋 発行

1991年12月25日 第一刷

 

第1章 時代の申し子、時代の頂点

モーツァルトが死んだのは1791年。社会秩序が音を立てて崩れていった時代。フランス革命を準備した総体的な変化があった。

 

モーツァルトが元気だった頃のヨーロッパは、国意識は弱かった。ザルツブルクという都市、あるいはミュンヘンという町があって、そのあたりのバイエルンという地方があってという、地方なり、町が、非常に緩やかな形で集合していた状態。とくにドイツ語圏は。

 

当時のヨーロッパは、宮廷はフランス語、音楽家の仲間と会うときはイタリア語。教会の司祭とはラテン語で話す。共通語があった。それに結ばれた緩やかな文化共同体。

 

モーツァルトこそ一つの文化が生み出した人物であり、音であり、メロディーであった。優れた作品であればあるほど、時代との結びつきが強いと思う。それはモーツァルトはあの時代に一番密着していたから。その残り香が楽しい。

 

第2章 「小さな大人」の旅の日々

モーツァルトの生まれたザルツブルク。非常に美しくて、非常に小さな町。

否定的な面では、狭くて息苦しい。

イタリアかぶれの大司教がイタリア風の都市造りをした。

 

普通ヨーロッパの街には市庁舎があって、その前に広場があり、そこから教会や散歩道につながっている。要するに市民の場がある。

しかしザルツブルクには市民の場にあたるものが全然ない。聖堂前の広場、聖職者の場所があるだけ。

 

モーツァルトはオーストリア人といわれるが、正確にいうとザルツブルク人。そこは大司教座のある独立した都市国家。

 

ザルツブルグのトンネル

イタリア好きの大司教がイタリア恋しさに掘った。向こう側だけボコッと空いていた。イタリアからの風が来てほしかったため。

歴代の大司教は南に対する恋しさと、住んでいる街の狭さで悶々としていたのではないか?

 

ザルツブルクの公使の歓迎の宴

料理の注文があり、そのあとで音楽の注文がある。料理と同じような注文で音楽も「軽く、腹にもたれないで」とか「後味のいいもの」みたいな感じで注文を書いている。

 

第3章 手紙のなかの天才

モーツァルトは大旅行家

十八世紀頃にヨーロッパの旅行網が整備された。

 

当時の乗合馬車は朝の二時とか四時に出発する。郵便が運ばれる時間に合わせていた。

 

第4章 ウィーン時代とフリーメイソン

絶対王政とか絶対主義はピラミッド型。縦の構造

それに対して秘密結社は横の構造。縦社会に対する横の平等。それもフランス革命につながる。

 

第5章 オペラの魅惑

小林秀雄のモーツァルト

オペラを目をつぶって聞くのは小林秀雄的曲解

オペラは音楽的には器楽的かもしれないが、人間の持っているドラマというもの、ぶつかり合い、また離れていくのが本当に実現しているから、やっぱり舞台を見ないとだめ。

 

日本のモダンなコンクリートだけのホールはオペラに向かないのではないか。

オペラというのは、本当にうねうねとした曲線ずくめでつくった、一種の胎内感覚のような劇場がふさわしい。

 

一人ぼっちというのは自分と対話しているから、誰もいらない。ロマン派はみんなそれかな。

モーツァルトはその逆で、孤独を許さない、関係のなかにしか人間が存在しないというあり方でしょうか。

 

第6章 死の一年

死の前、どうしてモーツァルトはあれほど窮迫していたのか?

人気が低下した。コンサートが減って収入減

賭け事に凝った?

死ぬまで着飾ったり、部屋の模様替えをやめなかったから?

 

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氷上旅日記 ミュンヘン~パリを歩いて

2024-01-08 21:04:29 | ヨーロッパ旅行記

 

氷上旅日記 

ミュンヘン パリを歩いて

ヴェルナー・ヘルツォーク 著

藤川芳朗 訳

中沢新一 解説

白水社 発行

1993年2月15日 発行

 

著者が重病になった大切な人を、助けなければならないという思いのため、ミュンヘンからパリまで歩いて行きます。

1974年の11月23日に、ヤッケとコンパス、そして最低限必要なものを詰め込んだリュックサックとともに、冬の悪天候の中、西へ向かいます。

歩いて行くなんて荒唐無稽な話なのですが、やはりそこには巡礼の精神があるのかなと思われます。

途中、ホテルにも泊まりますが、それ以外では空いている別荘や納屋に勝手に入り込んで、宿泊地としています。

とりあえず一読目、小説のような紀行文の流れに身をゆだねながら、一気に読めました。

二読目、グーグルマップで地名をなぞりながら読んでいきましたが、場所がよくわからない地名をあり、土地勘も無いので感覚がつかめませんでした。

ミュンヘンからパリまでの直線ルートだと、途中ストラスブールを通るようになります。

今ならシェンゲン協定のおかげで、また共通通貨ユーロのおかげで、独仏国境もスムーズにいけますが、当時はどうだったのか気になりました。

しかし話の中では、国境管理も通貨の両替も出てこないので、著者がどうしたのかよくわかりません。

それでもライン河越えは、橋ではなく、フライブルグの西方面にある、カッペルというところの渡し船のようなフェリーに乗っていたのが、新鮮に感じました。

グーグルマップで調べてみると、今でも同じような渡し船があるようです。

フランスに入ってからは、有名な町としてはドンレミとプロヴァンに滞在していました。

ドンレミではジャンヌ・ダルクの家に行ってます。ほんの少し、観光的な行動です。

フランスの聖女の地を訪ねるのは、パリの大切な人に向かって巡礼するのと重なるのかもしれませんが。

そこでジャンヌ・ダルクのサインをのぞき込み、Jehanneと書いてあるのを見つけます。誰かが彼女の手を取って、一緒に書いたものと思われる、と述べていました。

プロヴァン(Provins)は、文中ではプロヴァンスとなっていました。

ドイツ語では最後のsを律儀に発音するのでしょうが、南仏のプロヴァンスと紛らわしくなってしまっています。

著者はこの中世の古都で、町の高いところに行って、建物を見て、千年前の歴史がどんなに暗いものだったか、思い浮かべます。

12月14日、よれよれになりながらパリに着きます。

パリで彼女に会った時の情景が、短く、そして美しく語られています。

 

解説によれば、巡礼の目的は、目的地ではなく、旅の途上にある、とのことです。

目的地や、目的となる女性の存在は、単なる口実に過ぎない。しかしその口実のために、へとへとになって旅をするばかばかしさ、無意味さを通して、彼は意味の根源にたどり着くことができる、と書いてありました。

 

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ジャック・アタリ著 時間の歴史

2024-01-06 21:29:17 | ヨーロッパあれこれ

時間の歴史

HISTOIRES DU TEMPS

ジャック・アタリ 著

蔵持不三也 訳

ちくま学芸文庫

2022年2月10日 第一刷発行

 

本書において、時間を測るもろもろの道具の歴史、すなわち日時計から現代の実に奇妙な格好をした時計にいたるまでの歴史を詳細に通観し、あわせてその理論家や発明家、製作者の歴史を垣間見ようとしています。

 

第1章 水と日時計

Ⅰ 神々の時

しばしば太陽と月といった天体と同一視される原初期の祖霊が、地上に対して統制と力を行使する。

 

Ⅱ 聖なるものの暦

中国の場合、時間と権力と暦の間の関係はほかのほとんどの王朝や帝国以上にはっきりしていた。

すなわち、帝国の首府は皇帝の大権と権力の堅固さを象徴する欽天監(天文・暦数の測定推歩を司った役所、1370年以降)を有していなければならなかった。

 

Ⅲ 水と日時計

紀元500年頃になって、ようやくローマ人たちはパレスチナのガザにヘラクレスの大時計を建てる。

これは動く彫像を伴う巨大な水時計で、ヘラクレスが共鳴箱の上で時を打ち、メデゥーサの一人が流し目を左右に送る仕掛けになっていた。

 

教会の表層的な権力獲得、キリスト教の暦管理、暴力統御の究極的な聖性観、これがヨーロッパの紀元千年であった。

教会による時間の管理は修道院の設立運動から出立する。

 

Ⅳ 時打ち人形と市塔

時打ち人形が仕掛けられた市塔は、新しい都市権力の重要なシンボルとなる。

 

第2章 重錘と棒テンプ

占星術が機械に、神官が警吏に、水時計が大時計に、鐘楼が市塔にそれぞれとって代わられることで、時を告げる場が根底から一変した。

 

Ⅰ 身体の時

中世が終わりを告げる頃、最初の工業機械ともいうべき〈大時計〉が出現する。

 

大時計の時鐘には、殆どの場合、ハンマーでティンバルを叩いて時を告げる例の時打ち人形(ジャック・マール)が姿を見せるが、北仏、特にコンピエーニュ地方では、かつて民衆を大いに楽しませた時打ち人形を保存している市塔がいくつもある。

 

時計師というのはきわめて奇妙な職業である。神官と魔女の、鍛冶師と武器作りの、占星術史と卜者の衣鉢を継ぎ、同時に、修道院や宮廷用の水時計をつくるすべてのものの後継者でもあった中世の時計師たちは、さらに技術者としての一面を兼ね備えていなければならなかった。

 

Ⅱ カーニヴァルと大市

Ⅲ ゼンマイとクロノメーター(精密時計)

統御可能なエネルギーの貯蔵庫としてのゼンマイ

 

第3章 ゼンマイとアンクル

Ⅰ 時間の機械

Ⅱ 機械の時

エネルギーの大量生産と貯蔵の期間

Ⅲ 時間通りに生きる

 

第4章 クオーツとコード

Ⅰ 危機の時

Ⅱ 生の時計、死の時計

Ⅲ 《明敏な夜警》

『伝道の書』はいっている《太陽の下に新奇なるものはなし》

しかし、聖書に関するユダヤ律法学者の注釈はこうも述べている《太陽の上には、新しいものがある》

 

修道院の鐘が徐々にヨーロッパという無秩序な大海の中に都市の秩序を創り出したように、また陸に上がった海洋時計が駅やタイム・カードのリズムを固定させたように、今日エレクトロニクス暦の反復的な秩序が脅威になっている。

 

解題

「神々の時」

日時計と水時計がかけがえのない計時具

「身体の時」

分銅と平衡輪の登場によって時刻が確定

「機械の時」

人間が機械だけでなく、時間が人間それ自体を統御するための単位となっている

「コードの時」

時間をコード化したクオーツ時計が出現

 

 

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柳田「民俗学」への底流 柳田国男と「爐邊叢書」の人々

2024-01-05 21:27:09 | ヨーロッパあれこれ

 

柳田「民俗学」への底流

柳田国男と「爐邊叢書」の人々

松本三喜夫 著

青弓社 発行

1994年3月30日 第一版第一刷発行

 

はじめに

本書では柳田と地方の人々をつなぐ接点として「爐邊叢書」を取り上げ、柳田が地方の人々へ交わりを求めた理由について、地方の人々の立場から考えてみたい。

 

第一章 柳田国男と「爐邊叢書」

柳田国男の学風は「地をはって大地のあらゆるひだをさぐる」ことにあった。

 

「爐邊叢書」は全国各地の口碑や土俗を集めた叢書である。

内容的には、民俗誌、伝説、民話、昔話、方言、俚謡などが集録されており、主として地方に在住する郷土の研究家によって採集された、いわば一つの記録集となっている。

 

「爐邊叢書」の特徴

・執筆者32人中、14人の人々が『郷土研究』の執筆者である

・未刊に終わってしまった叢書計画が、実際に刊行された冊数の同数の37点あり、柳田国男の考えていた「爐邊叢書」の構想はもっともっと規模の大きなものであった

・「爐邊叢書」の続刊予定の書目の中には、「甲寅叢書」の刊行予定書目の中に入っていたものもみられた。その意味では、「爐邊叢書」の構想は、柳田自身が長い間にわたって温めてきた、時間的にも遠大な構想であったといえる。

・「爐邊叢書」は何よりも内容的に、現在の事実に忠実な採録と記録に重きが置かれていた。

・特に沖縄を中心にした南西諸島に関するものが多い

 

第二章 『遠野物語』の夢 佐々木喜善と『江刺郡昔話』

佐々木の民譚との関わりについて

 

佐々木の「鏡石」の「鏡」は泉鏡花の「鏡」、「石」は三陸の釜石の「石」からとったといわれる。

 

小説家を志していた佐々木が柳田国男に期待したのは、民俗学研究者としての柳田ではなく、抒情詩人としての柳田国男であった。

 

『遠野物語』では佐々木はあくまでも遠野の民譚の体験者であり、話者だったが、物語を見て誰よりも驚いたのが佐々木自身であった。

自ら語った話の内容が、見事なまでに作品に変わっていたのである。

 

佐々木の作品から、彼の役割を見ると

・佐々木が民譚の「話者」・・・『遠野物語』

・佐々木が民譚の「採集者」・・・『奥州のザシキワラシの話』『江刺郡昔話』『老媼夜譚』

・佐々木が民譚の「編者」・・・『紫波郡昔話』

 

第三章 雪国の爐邊語り 小池直太郎と『小谷口碑集』

『小谷口碑集』・・・長野県北安雲郡小谷(おたり)郷を中心とした地方に伝わる伝説、説話、年中行事などを集める

 

柳田国男の信州への旅は、その生涯の中で最も回数が多い。

養家へ立ち寄るためでもあったが、地方の郷土研究者の組織化という、より重要な目的があった。

 

柳田が小池直太郎で、最も高く評価している点は、彼が信州における甲賀三郎伝説の発見者であり、南信地方における「民俗学」の先駆者であり、行動の人であったからである。

 

柳田国男のスイスからの通信の『小谷口碑集』に関する主たる対象者は、著者としての小池直太郎よりも編集を行った馬場治三郎にあった。

 

第四章 菅江真澄との対話 中道等と『津軽旧事談』

柳田の津軽への関心の一つに「山人」あるいは「山の神」があったことはいうまでもない。もう一つは、菅江真澄の津軽から南部の動向の研究である。

 

第五章 二人の知の巨人の狭間で 雑賀貞次郎と『牟婁口碑集』

『牟婁口碑集』・・・西牟婁郡内の故事、伝説、民俗、俗信、行事などの口碑が集約

著者雑賀貞次郎は、和歌山県内の民族研究の先駆的存在として評されているとともに、南方熊楠の助手、あるいは側近として知られる。

雑賀貞次郎の『牟婁口碑集』の上梓にあたっては、南方熊楠の口添えと原稿の校訂があったといわれる。

また『牟婁口碑集』を出版した郷土研究社は、柳田国男が中心に運営していた「新しい種類の史学創造」のための出版社であった。

 

南方熊楠と柳田国男は「絶信」したのであって「絶交」したのではない。

 

雑賀の執筆したものから柳田の関心を誘ったのは「獅子舞の起り」と「神隠しの事例」であった。

 

柳田学の著しい特徴の一つは、採集や記録によって日本民族の歴史を書こうとしたことである。

 

第六章 未刊の『爐邊叢書』 菅菊太郎と「伊予大三島誌」

 

菅と新渡戸稲造の交流は、柳田と新渡戸の交流よりも古い。

菅は札幌農学校に入学ののち、日本とヨーロッパの交流について、その起源にさかのぼって実態を明らかにする研究に取り組み、『日欧交通起源史』を著す。

そのために広くヨーロッパの資料を渉猟する必要があり、菅は新渡戸に依頼して彼の所蔵する資料を見せてもらうことになる。

 

終章 柳田「民俗学」の底流

地方の人々に出版物の執筆を勧めることによって、柳田と地方の人々の間により強力な人脈形成ができること、もう一つには地方の人々との交流によって、柳田自身一人の研究者としての立場から見たとき、地方の研究者の研究成果を逸早く入手できるという利点があった。

 

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須賀敦子全集 別巻 対談・鼎談

2024-01-02 21:37:00 | ヨーロッパあれこれ

 

須賀敦子全集 別巻

河出書房新社 発行

2001年4月10日 初版発行

 

須賀敦子さんの対談・鼎談集です。

 

向井敏:丸谷才一さんは最初の三行で人を惹きつけなければならないと、よく言っているでしょう。

その絶品の一つ。小津次郎の『シェイクスピア伝説』の書評の書き出し

「伊勢松坂の小津家は二人の優れた文学研究者を世に送り込んだ。一人は現代の小津次郎で、・・・もう一人は江戸後期の小津弥四郎で、その専門は『古事記』と『源氏物語』である」

そして、ついでのようにこう書き添えるんです。

「念のために言ひ添へて置けば、弥四郎は後年、本居宣長と名を改めた」(笑)p29-30

 

小林秀雄のモーツアルト、ヨーロッパはあくまでご自身のそれで、実在のすがたではない。

池内紀さんの『モーツアルトとは何か』では、モーツアルトの生きた時代についての池内さんの精密な知識をテコにしている。p30-31

 

イタリアで、ドイツ人が山を下りてくる、という言い方がある。

イタリアへ下りてきたドイツ人が裸になって海へ入る写真が、四月の初めごろに新聞に必ず載りますが、それを見るとイタリア人は、「ああ、また春が来た」と感じる。p32

 

ヨーロッパの建築家は日本の建築家をうらやましがる。新しいものをどんどんつくれるから。

だけど、あまりにも簡単に作れ過ぎると、考えなくなる。

日本の自由詩と同じ。形式の規則が全然ない。韻をふまない、シラブルも定型をすべて捨てた。自由詩になってから日本の詩はとても貧しくなってしまった。p66

 

遠山公一:どうして日本は、アメリカと比べるのかがわからない。あんなに日本と違う国はないのにね。

須賀:いやいや、あんなに世界と違う国はないのよ(笑)

末吉雄二:ヨーロッパは日本と同じで、人間関係でがんじがらめだったり、談合なんていくらでもあるしね(笑)p139

 

末吉:留学というのは、フランスに留学した人は全くフランス贔屓になってしまうし、ドイツに留学した人は飲むワインもドイツワインになってしまうという不思議なものだけど、イタリアの中では留学先のその街が、何か第二の故郷ふうに、カンパニリスモを全くそのまま受け継いでしまうということがありますね。p141

 

遠山:イタリアで歴史地区をいかに守るかというのは大問題ですね。

日本の条例なんて、消防法がいくらあっても、美しいという観点では全く決まりがないのに比べて、イタリアではそれはすさまじく厳しいですね。p152

 

ペトラルカの詩の造り方というのは、春で川が流れていて、白い花がちらちらちらちら岸辺に座っているラウラの肩に散る、というな情景を、音節の数とか脚韻などすべてをびしっと固めて作ってあります。

入り組んだ厳格な規則(韻律)の中で言葉をレンガのように動かすわけです。p205

 

池澤夏樹:ローマが土台を作ってくれたから、その上に比較的か弱いギリシャ・アテネが乗っていられたということはあります。

簡単な話、東ローマ帝国というのはギリシャの国ですからね。東ローマが成立したのは西のローマが頑張ってくれたからで、そのしっかりした内側に入れたから今まで続いてきたという気持ちはギリシャ人は非常に強く思っています。p212

 

『氷上旅日記』ヴェルナー・ヘルツォーク

ミュンヘンからパリまで歩いて行く

ヨーロッパの巡礼の思想が、この人のどこかにあったのではと思う。p275-276

 

三浦雅士:ヨーロッパの文学とか文化ということでいいますと、北方のドイツと南方のイタリーという縦の軸というのは、非常に重要でしょう。p284

 

丸谷才一:今何を読むかというのは結局、それまでに読んだ本との関係で決まるんだと思います。

ボルヘスに「本とは、無数の関係の軸である」という台詞がありましたね。p294

 

川本三郎:ナチスの制服というのはたしかに、あらゆる軍服の中でいちばんきれいなんだそうです。

もとをたどればプロシアの制服から来ているんですけど、プロシアはお金がなかったので、傭兵は雇えなかった。国民皆兵で徴兵するときに、若い人たちを集めるためにかっこいい制服をつくった。p326

 

『パリ時間旅行』鹿島茂

川本:十九世紀半ばくらいから二十世紀初頭にかけてのパリの街の様子について、非常に生活感のある描写を丹念にされて、写真も豊富。p340

 

丸谷:クセノフォンの『アナバシス』

これは敗戦の記録で、戦争に負けて、一万何千人がうまく逃げていく話だけれども、これは興味津々、たいへん面白いですね。p374

 

私はときどきミラノの首府はウィーンだと思うんです。ローマではない。

ヴェネツィアなどに行っても、今でもそういう感じがしますし、北のトリエステまで行きますと、これはもうまったくウィーンの方を向いている町なんです。p386

 

解説 かけがえのない輝かしい会話 森まゆみ

はすっぱな言葉を使うのも好きだった須賀さん

「それでわたしはイタリアにしけこんじゃったという感じで・・・」

「ペルージャで空の青さを見ただけでもう、いかれてしまったんです」

「私なんか、一生、好きなもののためにぐれちゃった人間だから・・・」p399

 

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