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IMジェイエスピー社員が綴る日替わりブログ

特技は武器

2021-11-11 09:00:00 | 日記
やっほー皆様!!
Comeよ。

突然だけど、皆様には「特技」はあるかしら。

あたしは自慢できることではないけど…
スポーツ全般に長けているわ。
まぁこれが社会で活きるかっていうとそれは時と場合次第なんでしょうけど…

例えば社会全般でいえば「タイピング」が速いとか、「料理」が得意、「英語」が話せますだとか、
知識だったり物を生み出す能力っていうのは社会にも役立たせることができる大事な特技だと思うわ。

歴史の話でいえば、陸上戦だけでなく、海上戦や山での戦闘が得意な将軍がいたり、
芸術的なセンスで後世まで残っている絵画や陶器、詩なんかを生み出す人もいたり、
そういった能力は持ってれば持ってるだけ社会や文化に貢献できることが多くなるわよね。

ということで今回は、日本統一を夢に見た戦国武将達の中で戦闘のみでなく
「築城」
を特技とした戦国武将3人を紹介していくわよ!!

これを読んでいる人たちもこれを機に斜め上から特技を見つけるいい機会に、
またこれを読んで悪徳セールス対策に家を強固な守りにリフォームしようって思うかもしれないわね。
ではいくー!

藤堂 高虎(とうどう たかとら)(1556~1630年)
有名ではないけど、数々の大名に仕えた土豪(町内会長さんみたいな役職の平民)出身の武将よ。
近江の土豪の家に生まれた藤堂高虎は最初この地の戦国大名「浅井長政(あざいながまさ)」に仕えた時は、
足軽程度の身分だったみたい。
それでも、織田信長と戦った姉川の戦いでは主君である長政に知られるほどの功を挙げたことで、
浅井滅亡後は浅井氏の旧臣で信長の家臣になった阿閉貞征(あつじさだゆき)、磯野員昌(いそのかずまさ)、
信長の甥、織田信澄(おだのぶずみ)に仕えることができたのよ。
でもどこに行っても同じ主君に長く仕えることはなかったみたいね。
ただここで彼の転機が訪れるの。それがあの有名な豊臣秀吉(とよとみひでよし)の弟、
羽柴秀長(はしばひでなが)との出会いね。彼に仕えてからというもの様々な土地で戦の指揮を
とったり、彼のもとで初めて「築城」を行ったのよ。
その後は豊臣家から徳川家へと主君を変えていき、
各地に素晴らしい城を建設したこと、戦での数々の武功を挙げたことで後世に名を遺す優秀な武将になったの。

高虎公が築城した城
・和歌山城(わかやまじょう):和歌山県和歌山市
・宇和島城(うわじまじょう):愛媛県宇和島市
・今治城(いまばりじょう): 愛媛県今治市
・江戸城(えどじょう):東京都千代田区
・膳所城(ぜぜじょう):滋賀県大津市
・篠山城(しのやまじょう):兵庫県丹波篠山市
・伊賀上野城(いがうえのじょう):三重県伊賀市
・津城(つじょう):三重県津市
・二条城(にじょうじょう):京都府京都市

彼の築城で最も有名な作りはなんといっても「高度な石垣技術」と「層塔型天守閣」
他の城にはないほど高い石垣の作り、今まで作るのが困難だと言われていた天守閣を
シンプルに作ることで、他の城作りにも大きな影響をもたらしたわね。
長すぎるので細かいことが知りたかったらあとは調べて頂戴。


加藤 清正(かとう きよまさ)(1562~1611年)
身長が190㎝あったといわれている大柄な武将で、大男と言われていた武蔵坊弁慶(180cm)よりも圧倒的にでかい体の持ち主ね。
元は幼少時から豊臣秀吉に小姓として仕えていたんだけど、小姓って要は秀吉が各武将たちの大事な後継ぎを
自分の周りにおいて人質にとってたって感じよね。
清正はその後、賤ヶ嶽の戦いで大きな武功を挙げて、「賤ヶ嶽の七本槍」という異名を勝ち取ったわ。
豊臣秀吉の死後、徳川家康に仕え、熊本県に居城したわ。
それから関ヶ原の戦いが始まり、関ケ原の戦いには参加しなかったけど、
家康側の東軍としてその間、九州の各敵武将を調略し、九州の平定を行った優秀な方ね。

清正公が築城した城
・名護屋城(なごやじょう):佐賀県唐津市
・指月伏見城(しげつふしみじょう):京都府京都市
・熊本城(くまもとじょう):熊本県熊本市
・麦島城(むぎしまじょう):熊本県八代市
・宇土城(うとじょう):熊本県宇土市
・江戸城(えどじょう):東京都千代田区
・名古屋城(なごやじょう):愛知県名古屋市

彼の築城した最も有名な城といえば熊本県熊本市の「熊本城」よ。
防御態勢が完璧といわれている城で、上に行くほどに天にそびえ立つように角度が急な石垣、
通称「武者返し」がとても有名なの。極端に言えば石垣がSASUKEのそりたつ壁みたいになってるのよ。
清正公が生きていたころにはこの城に攻めてくるなんてことはなかったんだけど、
それから数百年後「西南戦争」にて、政府軍が西郷隆盛率いる軍を熊本城で退けたことで、
この城は再評価されたの。後に西郷隆盛はこの時について
「私は政府軍に負けたのではない。この城を築いた加藤清正公に負けたのだ」
と言ったとされているのよ。


黒田 孝高(くろだ よしたか)(1546~1604年)
最後は「黒田官兵衛(くろだかんべえ)」の名前で有名な黒田孝高公よ。
実は「官兵衛」という名は黒田家の名主の通称で、黒田孝高公を指す名前ではないのよね。
彼は竹中重治(たけなかしげはるまたはたけなかはんべえ)とともに豊臣秀吉の参謀と評され、
後世に「両兵衛」「二兵衛」と並び称されたの。
1580年、織田信長が石山本願寺を制圧後、加賀一揆衆を平定、北陸方面をほぼ手中に収め、
1582年に武田家を滅亡させて、残るは中国地方の毛利家の討伐のみ。
そこで立ちはだかったのが、当時難攻不落とされていた、清水宗治の「備中高松城」だったわ。
「備中高松城」は、当時としては少なかった低湿地を利用した沼城(ぬまじろ)で、
鉄砲・騎馬戦法にもめっぽう強かったと言われていたの。
城主の清水宗治はこの城に籠城し、簡単に攻め落とせない状況を作り、秀吉達も手をあぐねていた。
そこで孝高公は秀吉に提言するの。
「低湿地、低地を逆手にとって城の周りに堰を築き、川の水を流し入れ、城を水攻めにしましょう」
なんと相手方の利点を逆手にとって城の周りに水を引いたことによって、
相手方は身動きが取れなくなって兵糧がなくなって…降伏せざるを得なくなったのよ。
「剛」の戦い方だけでなく「柔」の戦い方も提言できる孝高公、シビれるわ。
まぁ結局、この柔軟な考え方、頭の良さのせいで秀吉が天下を取った後、
九州に飛ばされることになったのだけど…

大河ドラマ「軍師官兵衛」オススメだから是非皆様にも観てほしいわ。

孝高公が築城した城
・国府山城(こうざんじょう):兵庫県姫路市
・篠ノ丸城城(ささのまるじょう):兵庫県宍粟市
・中津城(なかつじょう):大分県中津市
・高松城(たかまつじょう):香川県高松市
・広島城(ひろしまじょう):広島県広島市
・名護屋城(なごやじょう):佐賀県唐津市
・福岡城(ふくおかじょう):福岡県福岡市

孝高公の築城で有名なものといえば「海や川を活かした城」ね。
九州に移住した時の最初の城、中津城では山国川(やまくにがわ)の三角州を利用して
川の流れで城を囲んだの。川の水を引くことによって枯れることはないし、
より大きな堀で城を囲むことができたから、石垣とはまた違う攻城の難しさを
作ったお城よね。
関ヶ原の戦い後は、福岡に福岡城を築城して、福岡城の1方は海、残りの3方を
幅が50mもある内堀で囲んで、難攻不落の城を構えていったわ。


さてどうだったかしら。マニアックな話でものすごい量になっちゃったけど、読んでくれたら嬉しいわ。
ちょっと皮肉な話なんだけど、色々なお城を巡ってみたら、体の不自由な方向けにお城の周りはバリアフリーに
なってるのよね。
時間が経って「難攻不落なお城」は「ノンストレスでウェルカムなお城」になったって知ったら、
みんなどう思うのかしらね。
ぜひ皆もお城巡りやってみてちょうだい。

では終わるわ。
バイナラ!!(Come)

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株式会社ジェイエスピー
  横浜に拠点を置くソフトウェア開発・システム開発・
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