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「蛇にピアス」

 金原ひとみの「蛇にピアス」を読んだ。なんでこの小説を?と自分でも不思議に思うが、たしか川上弘美の「真鶴」を読み終わって、現代小説をもっと読んでみなければいけないな、と思ってこの本と綿矢りさの「インストール」を買ったのだった。が、やっぱりなかなか読む気になれず、しばらく放置しておいたら、秋の初めに演出家の蜷川幸雄が監督をした映画「蛇にピアス」が公開されたという話を妻から聞いた。「藤原竜也が出ているから見に行きたいな」と言う妻の意向には、忙しくて結局応えられなかったが、せめて小説でも読んでみてどんな物語なのか教えてやろうと思った。
 だが、最初の数ページ読んだら、「こんな小説は私には読めない」と強く思った。安っぽいエロ小説のようで、どうしてこれが芥川賞に選ばれたのか理解できなかった。審査員がこうした小説を賞に選ぶことによって、自分たちの時代感覚が鋭敏であることを誇りたかったのかしら・・、などと邪推までしたくなるほどエロくてグロい小説だ、と読むのをやめてしまった。
 でも文庫本(集英社版)で100ページちょっとの小説をこのまま読まずにおくのも何かもったいない気持ちがずっとしていた。我慢して読み進めたら、何か胸を打つ箇所があるかもしれない・・と、読むのをやめたページが開かれたまま部屋の片隅に転がっている文庫本が時々は気になった。
 この前の日曜日、塾を終えてビールを飲んでいたら、何もすることがなく手持ち無沙汰でしょうがなかった。その時、酔っ払った今ならあの小説も読めるんじゃないか、そんな気がして久しぶりに文庫本を手に取った。だが、ひたすら性と暴力と野放図・・、いくら読み進んでも気分が悪くなりそうなのは同じだった。だが、次第に・・。
 酒浸りで、自分の舌を蛇のような二つに割れたスプリットタンにするため舌ピアスを入れて穴を徐々に大きくしていきながら、背中には龍と麒麟のタトゥーを施してしまうギャル、ルイ。髪を真っ赤に染めて顔中に無数のピアスを入れて現にスプリットタンになっているパンク野郎、アマ。この二人が道を歩いてきたら、いくらいろんな人間がうごめく都会だと言っても、大多数の人が道を避けるだろう。そんな二人が互いの素性、本名さえも知らずに同棲を始める。ルイは彫り師シバとも関係を持ちながら、その日その日をただ生きている。フワフワと漂うように生きている・・。アウトローな男二人の目から見ても危なっかしいルイはいったいどうしてこんな生活を送るようになってしまったのか、読者には何も知らされない。ただそこにそうある存在として描かれるだけで、瞬間瞬間に彼女が感じることを彼女の言葉を通して垣間見ることしか、私たちにはできない。
 ルイの感じることを読者が理解しようとしても分かるはずがない。ルイ自身が何も分からないのだから・・。ただ、断片的に彼女が己の存在を疎ましく思っていることはなんとなく伝わる。
「こんな世界にいたくない、と強く思った。とことん、暗い世界で身を燃やしたい、とも思った。」(P.45)
「日が差さない場所がこの世にないのなら自分自身を影にしてしまう方法はないか、と模索している」(P.50)
「私はずっと何も持たず何も気にせず何も咎めずに生きてきた。きっと、私の未来にも、刺青にも、スプリットタンにも、意味なんてない」(P.75)
「何も信じられない。何も感じられない。私が生きている事を実感出来るのは、痛みを感じている時だけだ」(P.87)
 ルイのこうした心の叫びは、徒手空拳でこの世に投げ出された赤ん坊の泣き声そのものだ。自分で自分の身を守ることもできずに、自らの体を傷めることでしか生きている実感がわかない、そんな無力な存在・・、痛ましい限りだ。そんな彼女をバカな奴と蔑むことはできるだろうし、自分とは住む世界がまったく違う人間だと無視することも可能だろう。だが、なぜかいたたまれない・・。
 
 そんなルイにもアマが殺されてから変化が見え始める。アマの死によって激しい心の痛みを感じたルイはそこから生きるために必要な何か(それが何なのかは私には分からない)を感得したのではないだろうか。体の痛みによってしか生きている実感を得られなかった彼女が、それよりも激甚な心の痛みに飲み込まれたことで、生きる方向に目を向けようとする・・。彼女はアマの残した歯を砕いて飲み干し、飛んで行ったらいけないからと目を入れていなかった背中に彫った龍と麒麟に目を入れる・・。
 彼女がこれからどうやって生きていくのか私には分からない。ただ、最後の一行、
「陽の光が眩しすぎて、私は少し目を細めた」
を読んだだけでもう十分な気がした。

 読み終えてしばらくは心に重いものが残った。その重いものを蜷川幸雄も感じただろうか、いまさらながら彼の映画を見たくなった。
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