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緑さす

 毎日新聞朝刊に掲載されている「季語刻々」、普段は目を通すことがあまりないのだが、昨日取り上げられていた中村祐子さんの句には、自然に目がとまった。

  「少年の顔となりたり緑さす」

 選者である坪内稔典さんの解説がいい。
 『季語「緑さす」は、新緑を通して光の差すようす。祐子の句は緑がさして何かの顔が少年の顔のように見えたというもの。中年の男とかブロンズ像とかに緑のさしたようすだろうか。
 「緑さす」は国語辞典などにはまだ見当たらない。一部の歳時記に出ているのみだが、これから育つ季語かも。語感がきれいだ。』

 まさに新緑の季節。どこを歩いていても、新しい緑で溢れている。まさに「緑したたる」といった風情だ。こんな時に、緑の隙間を透いてくる陽光を浴びれば、いくらくたびれた中年親父でも若木のように瑞々しく見えるかもしれない。たぶん選者はこの句をそう解しているのだろう。
 
 だが、私は違う解釈をしてしまった。



このところ、私の一日は、寝所の隣室に居並ぶ葉っぱたちを眺めることから始まる。天気がいいと、陽差しが緑に反射して眩しい。清々しい空気にふれ、次第に寝起きのボーとした頭も覚めてくる。「ああ、気持ちがいいなあ・・」、そう伸びをする私の顔はきっと少年のように輝いていることだろう・・。

 などとずいぶん手前味噌な解釈だが、実に秀逸な名句だと思った。ふだん俳句とは無縁な生活を送っている私だが、17文字で切り取られる世界にインスパイアされることもあるもんだな、と俳句の力を再認識した。

 で、私の一句。

 「緑さす部屋にてしばし時忘る」

 お粗末・・。
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