夕映えに

陽が落ちるまで輝きたい、くさぐさの記録(日々の出来事、読書、スポーツ、友だち)

軍事下 我が少年(少女)時代のメモリアル 

2010-08-14 14:16:17 | Weblog

    明日8月15日は65年目の終戦記念日を迎えます。わたしは小学校5年生
   でした。この日は夏休みで、お昼に重大放送があると言うことで、家族がラジオ
   の前に集り天皇陛下の玉音放送を聞きました。子ども心にも「耐えがたきを
   耐え、忍び難きを忍び・・・」と流れる言葉に俯いてしばし言葉もなかったでした。
                        玉音放送でぬかずく宮中前  

             

   太平洋戦争の勃発が昭和16年12月8日ですが、わたしの小学校入学
   16年4月でこの年から小学校ではなく国民学校として初等科6年と高等科
   (今の中学)2年に分かれていました。(第2次世界大戦下にあった)
            真珠湾攻撃    (ここから戦争が始まった)
        

   入学当初は戦時下でありながら、衣食にあまり影響のない暮らしでした
   父の仕事の関係で伊勢市(昔は宇治山田市)での暮らしでしたが、衣食に不自由
   はなくお正月に振袖を着て神宮参拝もしました。

   戦局が悪くなったのは2年生頃からで、家の中は「灯火管制」が強いられ、
   電燈は光を弱くするために黒い布で覆いました。 町内会では屋根に焼夷弾
   が落ちたことを想定してのバケツリレーによる消火活動もありました。

   また学校からは、戦死者(英霊と言った)の家へのお参りも行ったことが
   ありました。

       3年生になり母の故郷の今の土地に帰ってきました。父の職場が神宮
    であり、こちらには別宮があり丁度良かったのでした。

    姉は6年生、二人の兄は成人でそれぞれ農林省(東京)と満鉄病院(満州) 
   へ勤務でした。

    田舎での暮らしは最初は言葉と着ている物などで多少のいじめはありま
    したが、今のようではなく、何とか凌げました。戦時下では食糧難もあり、
   子どもとて田畑に手伝いは
大人並みに課せられました。
       家でも米作りのための田植え、草取り、稲刈りなど手作業でした。そして
    採れた物は供出が強制され持っていかれるのです。今のように米のご飯で
    なく麦、さつまいも、雑穀飯でした。炊事は全てかまどで炊いていました。
    食事の用意は子ども達でしました。 銃後を守っているのは女の人ですが
   (働ける男は戦地にとられ残りは年寄りと女)外での仕事に追われていました。

   肉、魚なども無く、卵は鶏を飼って自給自足卵を産まなくなった鶏は家
  さばいて唯一の肉料理でした。お菓子などの砂糖類も配給で少なく、さつまい
  も、もちあられがおやつでした。肥満児や肥満の人はいなかったです。(むしろ
  栄養失調で痩せていた)
      衣服は、先生も生徒ももんぺ(男の先生はカーキ色の国民服)靴はなく
  わらぞうり(自分でわらで編む)雨が降ろうが長靴はなし、かけっこはみんな裸足
 で走る・・・・寒い季節はコートが無いから綿入れの羽織り・・・物のない時代
  でした。

   学校では校舎の周りは芋畑、運動場の真ん中では時々駐屯の兵隊さん
  による訓練もありました。(私の家も離れは将校宿舎となっていて兵隊さんの
  集り場でした)

   また週に1回は銃の代わりに竹やりを持ち、全校生徒で行進があり、
  「歩調とれ」「頭右」などの号令で暑い中も動いていました。中には熱中症で倒
 
れる者もいましたが、今の子どものようには弱くは無かったです。   

   4年生、5年生ごろには家の庭にも防空壕が掘られB29戦闘機が現れる
   と急いで壕に入りました。学校での空襲警報発令には防空頭巾を被り
   非常袋救急用品や大事な物いれ)を肩にかけ、山道を通りみんなで防空壕
   に逃げ込みました。B29が何機も編隊を組んで飛んでくると恐れをなしたも
   のでした。                   防空壕  各地に作られた
      

  終戦近くになるとラジオからは各地玉砕のニュースが入り、東京空襲,等
   も報じられました。名古屋空襲では朝になるとこちらの空まで太陽が煙で曇り
   見えないほどでした。・・・夕べは名古屋が・・・と思ったものです。

   伊勢空襲のときは、家から見える山の上が炎で赤く見え、兄嫁さんは、
  伊勢の人だったので歩いて山を越えていきました。(燃え尽きていました)
  (二人の兄はビルマに行っていました)兄の戦死の公報が届いたのは
  戦後でした。(実際の戦死は長兄が20年1月9日、次兄が19年9月15日)

   原爆投下はラジオから流れました。当時「今度の新型爆弾は黒い服を
  着ているとそこだけこげるのだって」と・・・噂でした。そして終戦となりました。

  田舎暮らしで戦禍は免れましたが、食糧難、物資難、恐怖感の時代でした。
 肉親を失くしたこの戦争はわたしが生きている限り、メモリーから消えることが
 無いです。もっともっと苦しい思い、生活をされた人々が居ることで癒やされて
 生きてきました。
 
   「鬼畜米英」 「撃ちてし止まん」 「欲しがりません勝つまでは」
     「神風日本」 などの言葉が常に子どもたちの口に上った時代でした。