夕映えに

陽が落ちるまで輝きたい、くさぐさの記録(日々の出来事、読書、スポーツ、友だち)

終戦特集番組 二つのドラマ  「帰国」  「15歳の志願兵」  

2010-08-16 13:23:33 | Weblog

   今年で65年を迎えた終戦記念日、14日と15日に民放とNHKでそれぞれ
  ドラマが放映されました。

   その一 「帰国」  倉本 聰  脚本  舞台「帰国」も今月から全国ツアー
       

   終戦から65年経った8月15日東京駅地下ホームに、南方戦線で戦い
  玉砕した兵士の霊が降り立つ所からドラマは始まった。
  彼らは、和になった故国を目撃すること。そして、かの海にまだ漂う数多
  の魂にその
現状を伝えること。
  
     しかし、彼らが見た日本の世相は
        携帯電話のメールに没頭する少女
      音楽の 時間無反応で歌を歌わなくなった子ども
       女手一つで育ててくれた母を意識回復の見込みがなくなると病院に放置
       する政府顧問の学者……。等

    倉本氏は言う (75歳の倉本氏はわたしと同世代です)

   永年夢見た帰国の時、故国のために死んだ彼らは、今の日本に何を
  見たか
.。.

   60余年の空白を経て浦島太郎のようにこの国に戻り立った英霊たちの
  驚愕は、想像するに余りある。これは鎮魂のドラマであり、怒りと悲しみの
  ドラマである。
     もう先のない僕らの世代が、一つの時代の小さな証人として遺しておか
  ねばと思い書き下ろしたものである。
 
     その2 「15歳の志願兵」 
原案は江藤千秋の著書
             『積乱雲の彼方に -愛知一中予科練総決起事件の記録』
       

   昭和18年7月5日。愛知一中(現在の旭日高校)の決起集会で、全校生徒
  700人が戦争に行くことを決めた軍部の思惑により少年たちの心は戦場へ
  と突き動かした
兵士不足を解消したいがために、軍部が学校に圧力をかけ
  中学生を「軍国少年」に変えていった。
       
     夢と純粋な心をもった少年たちは祖国のために夢を捨てた
     少年たちを戦場へ送らざるを得なかった教師や父母の苦悩や葛藤に涙せ
   ざるを得ませんでした。主人公の1人は視力が劣るために志願兵への不合格
   となり、友への苦悩にさいなまれたが、友の最後の日記で友情を信じた
  

   自ら選んでの予科練ではなかったのですが、彼らを動かせた志気は、
  現代の若者には理解しがたいものがあるでしょう。
   軍部への憤りというより、彼らの純粋さに心を打たれたわたしです。

  


  お盆のお墓参り

2010-08-15 10:01:36 | Weblog

   8月13日に精霊さんをお迎えして、14日、15日の二日間は墓参りをする
   のが我が地区のお盆の慣習です。子供の頃は精霊は家に戻って来るのに
   何故お墓参り?と思ったものでしたが・・・・魂は戻ってもお骨はお墓にですから、
   お参りするのですね。
        

   お墓参りは早朝5時過ぎに行きました。陽は出ていますが朝曇で歩いてい
   くには(10分ほど)良い時間でした。この時刻でもお盆ですからお参りの人は  
   かなりいました。

       自分の家だけでなく、親戚や知人のお墓にもお参りします。夏は花入れの
   水が早くに無くなっていくので、時には水替えに行かなければなりません。
   花(しきみ)も枯れやすいですが、しきみのない時はびしゃた供えます。
   地区ではきれいな花(菊や百合 水仙など)は供えても良いが、捨てるのは
   禁じられていて古くなった花はごみとしてお持ち帰りの約束となっています。

     しきみやさかきは捨てる場所が定められ、1週間に1度当番が炉で焼く
   ことになっています。

   今年のお盆は出かけるでもなく家にて過ごします。車の運転も今少し骨
   (肋骨)の痛みでハンドル操作に響き、暑い時でもあり、テレビの前に座り
   込み、朝は全米ゴルフ、昼は野球、夜は終戦特集番組と合い間に読書で
   日が過ぎていきます。・・・畑の草が気になりますが・・・


軍事下 我が少年(少女)時代のメモリアル 

2010-08-14 14:16:17 | Weblog

    明日8月15日は65年目の終戦記念日を迎えます。わたしは小学校5年生
   でした。この日は夏休みで、お昼に重大放送があると言うことで、家族がラジオ
   の前に集り天皇陛下の玉音放送を聞きました。子ども心にも「耐えがたきを
   耐え、忍び難きを忍び・・・」と流れる言葉に俯いてしばし言葉もなかったでした。
                        玉音放送でぬかずく宮中前  

             

   太平洋戦争の勃発が昭和16年12月8日ですが、わたしの小学校入学
   16年4月でこの年から小学校ではなく国民学校として初等科6年と高等科
   (今の中学)2年に分かれていました。(第2次世界大戦下にあった)
            真珠湾攻撃    (ここから戦争が始まった)
        

   入学当初は戦時下でありながら、衣食にあまり影響のない暮らしでした
   父の仕事の関係で伊勢市(昔は宇治山田市)での暮らしでしたが、衣食に不自由
   はなくお正月に振袖を着て神宮参拝もしました。

   戦局が悪くなったのは2年生頃からで、家の中は「灯火管制」が強いられ、
   電燈は光を弱くするために黒い布で覆いました。 町内会では屋根に焼夷弾
   が落ちたことを想定してのバケツリレーによる消火活動もありました。

   また学校からは、戦死者(英霊と言った)の家へのお参りも行ったことが
   ありました。

       3年生になり母の故郷の今の土地に帰ってきました。父の職場が神宮
    であり、こちらには別宮があり丁度良かったのでした。

    姉は6年生、二人の兄は成人でそれぞれ農林省(東京)と満鉄病院(満州) 
   へ勤務でした。

    田舎での暮らしは最初は言葉と着ている物などで多少のいじめはありま
    したが、今のようではなく、何とか凌げました。戦時下では食糧難もあり、
   子どもとて田畑に手伝いは
大人並みに課せられました。
       家でも米作りのための田植え、草取り、稲刈りなど手作業でした。そして
    採れた物は供出が強制され持っていかれるのです。今のように米のご飯で
    なく麦、さつまいも、雑穀飯でした。炊事は全てかまどで炊いていました。
    食事の用意は子ども達でしました。 銃後を守っているのは女の人ですが
   (働ける男は戦地にとられ残りは年寄りと女)外での仕事に追われていました。

   肉、魚なども無く、卵は鶏を飼って自給自足卵を産まなくなった鶏は家
  さばいて唯一の肉料理でした。お菓子などの砂糖類も配給で少なく、さつまい
  も、もちあられがおやつでした。肥満児や肥満の人はいなかったです。(むしろ
  栄養失調で痩せていた)
      衣服は、先生も生徒ももんぺ(男の先生はカーキ色の国民服)靴はなく
  わらぞうり(自分でわらで編む)雨が降ろうが長靴はなし、かけっこはみんな裸足
 で走る・・・・寒い季節はコートが無いから綿入れの羽織り・・・物のない時代
  でした。

   学校では校舎の周りは芋畑、運動場の真ん中では時々駐屯の兵隊さん
  による訓練もありました。(私の家も離れは将校宿舎となっていて兵隊さんの
  集り場でした)

   また週に1回は銃の代わりに竹やりを持ち、全校生徒で行進があり、
  「歩調とれ」「頭右」などの号令で暑い中も動いていました。中には熱中症で倒
 
れる者もいましたが、今の子どものようには弱くは無かったです。   

   4年生、5年生ごろには家の庭にも防空壕が掘られB29戦闘機が現れる
   と急いで壕に入りました。学校での空襲警報発令には防空頭巾を被り
   非常袋救急用品や大事な物いれ)を肩にかけ、山道を通りみんなで防空壕
   に逃げ込みました。B29が何機も編隊を組んで飛んでくると恐れをなしたも
   のでした。                   防空壕  各地に作られた
      

  終戦近くになるとラジオからは各地玉砕のニュースが入り、東京空襲,等
   も報じられました。名古屋空襲では朝になるとこちらの空まで太陽が煙で曇り
   見えないほどでした。・・・夕べは名古屋が・・・と思ったものです。

   伊勢空襲のときは、家から見える山の上が炎で赤く見え、兄嫁さんは、
  伊勢の人だったので歩いて山を越えていきました。(燃え尽きていました)
  (二人の兄はビルマに行っていました)兄の戦死の公報が届いたのは
  戦後でした。(実際の戦死は長兄が20年1月9日、次兄が19年9月15日)

   原爆投下はラジオから流れました。当時「今度の新型爆弾は黒い服を
  着ているとそこだけこげるのだって」と・・・噂でした。そして終戦となりました。

  田舎暮らしで戦禍は免れましたが、食糧難、物資難、恐怖感の時代でした。
 肉親を失くしたこの戦争はわたしが生きている限り、メモリーから消えることが
 無いです。もっともっと苦しい思い、生活をされた人々が居ることで癒やされて
 生きてきました。
 
   「鬼畜米英」 「撃ちてし止まん」 「欲しがりません勝つまでは」
     「神風日本」 などの言葉が常に子どもたちの口に上った時代でした。
 


重い8月   -65年の時が経てもー

2010-08-12 08:04:17 | Weblog

    戦後65年の夏がめぐってきました。昭和20年8月6日広島へ、9日長崎
    への二つの原爆により、15日終戦(無条件降伏)へと、やっと平和への道が
   開かれました。軍事国日本にあって全ては大本営の支配のもとでの生活で
   した。

   わたしは、8月と言う月はあまりはしゃいだ気持ちになれない月 です。
   「戦争」と言う歴史が重くのしかかり、わたし中の「トラウマ」となっているので
    しょう。 ・・・ 二人の兄の戦死もわたしにとっては人生を左右・・・

   田舎に疎開していたわたしでさえですから、直接大空襲に会い戦禍をくぐり
   抜けた人々、それにもまして赤紙一枚で戦地へかり出された兵士、その多くは
  「名誉の戦死」のもとに遺体無き帰還となりました。(二人の兄も白木の箱は1枚
  の紙切れでした)

    ラジオ深夜便 昨日、一昨日と2日間 作家(エッセイスト)の澤地久枝さん
   が
「国家が奪う命の重さ」として語られました。
            

   ミッドウェー海戦での戦死者1319名の半数以上の遺族を20年費やして
   訪ね、遺族の思いを聞き、また日本だけでなく米兵の家族をも訪ねられたそ
   うでした。中には辛いことほど語られなかったとも話されました。

   「妻たちのニ・ニ六事件」で ニ・ニ六事件( 昭和11年2月26日から2月29日 
    にかけて、日本陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、
   「
昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件) に関わった兵
   家族達の追跡調査の様子も語られました。

   またガダルカナル戦では帰還兵が人肉さえと言う、今なら人道にも関わる
    と言う事実さえあったわけです。

   如何に戦争は人間性さえ失い、命を奪うものであるか

   8月は 戦場でなくなった人々、また残された多くの家族、そして戦禍で
    人生が変わった人々、(原爆も含め)など様々に思いを馳せ、今在ること
    を感謝する月でしょう。   


整形外科受診   甲子園  三重代表いなべ総合敗退

2010-08-10 20:38:44 | Weblog

   肋骨損傷で今日は町内にある整形外科医院へ行きました。以前にも行って
 あるので、カルテが残っていました。

   レントゲンを撮ってもらいましたが、はっきりとは「ひび」は写らないようです
 がやっぱり「ひび」の入った症状ですとのことでした。コルセットを頂き、湿布
 1ヶ月ぐらいは全治にかかるそうです。
        

  また以前にも骨粗鬆で検査をしてあったのですが、今回も検査をしました。
 普通の人の59%の骨密度で、70%以下になると薬の治療をしたほうが良い
 が、わたしの場合背中も腰も曲がらず、珍しいように言われました。
    まあ「遺伝もあるでしょうが」と、しかし予防のために薬は服用してみてはと
 言われ、1週間に1回だけ飲む薬を出してくれました。

   痩せ気味なのもあまりよくなく、もう少し骨に肉をつけたほうがと笑いながら
 話していました。(体重43K台・・・身長154・・・では肉は少ないです)

      お医者さんとの話で、年寄りは「こけるな、骨折るな、風邪引くな」と言う
   けれど現代医学は骨を折っても治療で寝たきりにはならないですよ。と・・・
   少し安心しました。ゴルフもしばらくお預けです。  

     全国高校野球 

   今日の第2試合は三重のいなべ総合×福井商でしたが6:0で1回戦で
   破れ
ました。5回の6点だけで惜しい試合でした
       


肋骨損傷

2010-08-09 20:49:43 | Weblog

   ちょっとした不注意で肋骨を打撲しました。瞬間の痛みはきついでした。
  自動車に乗っていて、助手席のドアが半開と思い運転席から確かめようと手
  を伸ばした所、運転席脇のボックスでいきなり肋骨を打ってしまいました。
   不自然な姿勢が災いでした。その後は呼吸をしたり、あくび、くしゃみ力む
  などすると痛みます。また座った状態から立ったりの際も思わず「痛い!」の声
  が出ます。

   何年か前にも一度両手にゴミ袋を持ち、突っ掛けサンダル(ヘップ)を履い
  て玄関を 出たところ、雨でぬれた敷石につまづき、前のめりで花壇のレンガ
  で肋骨を 打ちました。しばらくは脳震盪を起したつことが出来ませんでした。
  二度とないようにとゴミ捨てにはヘップを履かないようにしたのですが・・・・
      今度の場合は自動車内でのとっさの失敗でした。

   前回は医者にも行きましたが、肋骨へのひびで湿布薬程度であとは日が
   経てばと言うことでした。

   わたしの場合少し痩せ気味で肋骨の周りは肉がなく、すぐ骨ですから、
 クッションがないのです。背骨もそうですから硬い椅子に座ると骨に当たり
  痛いです。骨粗鬆(同年代の80%弱ぐらい)もあり、これからは骨折に気を
  つけなければならないです。

    高齢者は「転ぶな、骨折るな、風邪引くな」と寝たきりにならないための 
  戒めを言いますが、どんなことで失敗するやもです。今回この程度でよかっ
  たですが、明日は整形受診にでもと思っています。


近づくお盆  墓参りに

2010-08-08 15:39:03 | Weblog

    このところ、6日には名古屋からは従兄の嫁が7日には四日市からは甥
     がそれぞれ墓参りにと、2日間墓参りの付き合いをしました。草抜きなどの
     掃除はすでに済ませていたので、お参りだけでした。
          

    また7日からはお盆の入りで、区の方では初盆を迎える家にはお参りに
    行きます。13日までのうちにお供えを持ってですが、わたしの区では8軒あり
    一軒でお二人の家もありました。(田舎のしきたりとなっています)
           初盆の家には玄関に提灯が飾られます  

   昔はお盆前には暑いときでも大掃除で忙しいでしたが、今はパワーアップの
  掃除機やモップなどで常に掃除をしていると、あえて大掃除をしないてよいので
  助かります。台所がIHやガスなどで昔のように薪を焚くことがないからです。

   文明の時代は、人間少し怠けがちになるようです。昨日から全国高校野球
  も始まり、しばらくはテレビで甲子園に釘付けでしょう。
           


ヒロシマ 65年目の夏

2010-08-06 21:21:38 | Weblog

     昭和20年8月6日広島に原爆が投下されてから、65年目の夏を迎え
   ました。戦争を知らない世代の方が多くなり、平和が続いている日本ですが、
    広島・長崎の犠牲があっての平和を忘れてはならないです。

   今日の広島市での平和記念式典には、初めて国連総長やアメリカ大使
    出席もあり、世界の各国からも代表が「核廃絶」を訴えての出席でした。
         
            

    午前8時15分投下時刻に1分間の黙祷があり、わたしもテレビと共に
     黙祷をしました。

    何故広島・長崎か?  
           アメリカの原爆実験の一つであり、(トルーマンは アメリカの
          兵士を救うためと述べているが)5つほどの都市が候補、京都
                     は古都であり、新潟は遠い、広島は人口も多く、市内に高い
                     ものがない長崎はキリシタンの町である。
           また広島はウラニューム爆弾・長崎はプルトニューム爆弾
          とのこと、   広島への原爆
               

   多くの死者を出した原爆、未だに被爆に苦しむ人々、ガンの発症など
   被爆関連 もあり、原爆症認定などで取り沙汰されてもいます。

    今朝もラジオ深夜便での「明日への言葉」で「魂の水で原爆ドームを描い
   て20年」と言う被爆証言の会代表の原 廣司さんの話がされました。ドーム
   だけを描きまわりの物は一切描かないと・・・・ドームが、見る者に訴える
   のでしょう。  

   テレビも吉永小百合さんの原爆詩の朗読とコンサートなどのドキュメント
  が放映されました。峠三吉さんの「ちちをかえせ・・・」の詩と共に・・・
        

  広島、長崎の犠牲の上に築かれての平和日本、核廃絶の先鋒となって
 全世界に叫んでいかねばならないでしょう。


ゴルフ賢交会 伊勢志摩ロイヤル

2010-08-05 21:07:29 | Weblog

   暑い日でしたが午前中は時雨があり、照らずだったので、助かりました。
   賢交会ゴルフ暑いですから、7月8月の2ヶ月は休むと言う人もいます。賢明
  でしょう。

    参加者14名、今日は女性2名、男性2名での組み合わせでした。毎夜の
  暑さに不眠となり寝不足で始めた頃は思うように体が動きませんでした。
    食欲も減退気味で昼食も残しがちとなります。体力が弱ると熱中症にも
   罹りやすいですから、水分塩分をしっかり入れました。
       また足のこむらがえりもよく起すので、漢方の68を飲みました。

   

        こんなに暑い日がするのに何故止めようとしないか、やはり「そこに
    ゴルフ場があるから・・・・」それなりの意義があるのでしょう。

     結果 102(52 50)     6位


夏山遭難事故ーニュースより

2010-08-03 20:55:30 | Weblog

    このところあちらやこちらで夏山登山の事故が起き、救助隊が二重,三重
    の事故を起しています。

        山の事故は5月の連休のころ、また冬山シーズン中、そして夏山登山
  
で多く発生しています。最近は登山ブームと言うか、「そこに山があるから登る」
    と言った安易な気持ちでの中高年の登山グループが多くなってきました。
           
    低い山でも登ったときの爽快感は登った者でなければ味わえないものです。
    わたしも隣町の「てくてく会」でいくつか低い山(5,600M)に登ったことがあり
    ますが、1000Mクラスはとてもです。最近では高齢者でも愛好家で、グルー
    プ登山等で楽しんでいます。

    しかし安易な登山は常に危険があり、その度にSOSを出し救助隊の出場
    となるのですが、二重、三重の遭難も起こりうるわけです。犠牲になった救助
    隊の方やご家族の哀しみはいかばかりかと思います。犠牲者の冥福を祈り
   ます。

   もう40年も前になりますがわたしの従弟も5月の連休に前穂高でロック
    クライミング中300Mを滑落若い命を落としています。彼は登山と言うよ
    岩登りが専門だったようでした。十分な練習も積んだはずだったのが、事故
    につながったのでした。上高地で荼毘に付され帰ってきました。
         
   一歩誤れば死につながる登山、それでも登らざるを得ないのは、山が
   如何に魅力(登ることの達成感も含め)をもって存在するからでしょう。


    今日は森夫妻とTさんの4人でホテルスペイン村の夏の特別ランチ
     (7,8月限定)を食べに行きました。ステーキが主ですが大きなものでなく
      値段もお手軽でした。ここのデザートはいつもおいしいでした。