主人の手術を待っている間に、私が読んでいた本が、湊かなえさんの「母性」です。
結婚して子どもを産んでも、自分の娘の「母」となることより、自分の母親に大切にされる「娘」であり続けたいと願った「母」と、そんな母親の子として生まれたために、逆に、母親の愛情を必要以上に求めてしまう「娘」の話。
母は、自分の娘を大切に思っていなかったわけではありません。
「私は愛能う限り、娘を大切に育ててきました」との母の手記通り、自分の母(娘にとっては祖母)が命を投げ出しても守りたいと思った娘を、「母に褒めてもらえるような人に育ってほしい」との思いで育ててきました。
でも、母が自ら命を絶つきっかけとなってしまった自分の娘を、どうしても抱きしめることが出来ずに、また、娘が伸ばした手さえも払いのけてしまったのです。
私は、自分と母との関係を重ねて、この母娘の手記を読んでいました。
私も、母に抱きしめられたことがありません。
そして、5歳の時に突然母となったその人を、ついこの前までママと呼んでいた人と同じように手を伸ばして甘えることが出来ませんでした。
今思えば、21歳でいきなり親となってしまった母に、母性を求めることなど無理だったのかもしれません。
それでも、母なりに必死に頑張って、歳時記に合わせて素敵な料理を作ってくれたりもしました。
そして、子どもを理想の「よい子」に育てようと厳しくしつけ、その結果、怒られないようにと親の顔色ばかり窺うようになってしまった私を、母は、「子どもらしくない子だ」と言うようになりました。
私は、母に褒められようとして、必死で「よい子」を演じていたのですが、もし、私が子どもらしく、もっと母に甘えることが出来たなら、母との関係も変わっていたのでしょうか・・・?
小説では、祖母の死の事実を知って、自分には母の愛を受ける資格がないのだと思った娘が首を吊ってしまいます。
私も、母に「私の青春返して!」と、詰め寄られたとき、何かがぷつりと切れたように、
「死ぬしかないんだ!」と思いました。
どんなに頑張っても、どんなに努力しても、無理だったんだ。母が私を褒めることはない。
私の存在自体が、母にとっては迷惑なものなのだ、と。
小説の続きは、首を吊った枝が折れてしまい、ぐったりと地面に横たわった娘の手を握りしめ、母は娘の名前を叫びます。
失くしてはならない、かけがえのない大切な娘として、彼女の手を握り続けます。
一方、私は、実際に自殺を謀ったわけではありません。
その前に、母にぼこぼこに殴られましたが、私を思いとどまらせたのは、母ではなく、
「姉ちゃんをいじめるな~!」と、ひきつけを起こしそうなほど泣き叫びながら、私達の間に入ってきた弟でした。
また、かけがえのない存在として、その手を握りしめたのは、娘の私の方でした。
母のことを愛しているのか憎んでいるのか、それさえ分からなくなっていた私でしたが、母がくも膜下出血で倒れたとき、
「お母さんを助けてください!」と、心の底から祈り続けました。
どれだけ自分が母を愛していたのか、どれだけ母を必要としていたのか・・・
母は、10日後に亡くなってしまいましたが、私にもようやく気付くことが出来たのです。
私の母と違って、小説の中の娘は意識を取り戻しました。
そして、幸せを手に入れました。
最後に、娘が語った言葉。
これは、私の思いそのものでもあります。
「わたしは子どもに、わたしが母に望んでいたことをしてやりたい。愛して、愛して、愛して、わたしのすべてを捧げるつもりだ。。。」
「時は流れる。流れるからこそ、母への思いも変化する。それでも愛を求めようとするのが娘であり、自分が求めたものを我が子に捧げたいと思う気持ちが、母性ではないのだろうか。」
私も、今、幸せです。
色々大変なことはあるけど、息子の笑顔を見ると、「やっぱり幸せ」だと思います。
願わくは、私の母にも生きていてほしかったです。
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