イエスは偽りの宗教指導者のパリサイ人たちに、安息日に関し、独自の規則を設けて人々を裁くのではなく、神エホバは「憐れみを望み、犠牲を望まない」、教えられている意味を理解しておくように教えられました(マタイ12:1~8)。人間は独自の規則を設けて、他の人に「重荷を負わせる」ことがありますが、イエスの教えは、困った状況下では、まず神エホバに見倣い「憐れみを示す」ことが優先されなければならないことを教えています。さらにイエスは、安息日に「片手のなえた人」を治し、安息日に「りっぱなことをする」のがエホバのご意志であることも教えられました。マタイの福音書に次のように記されています。
「その場所を去ってから、イエスは人々の会堂に入られた。すると、見よ、片手のなえた人がいた。それで彼ら(パリサイ人たち)は、「安息日に病気を治すことが許されるだろうか」とイエスに尋ねた。彼(イエス)を訴える理由を得ようとしてであった。イエスは彼らに言われた、「あなた方のうち、一匹の羊を持っていて、それが安息日に穴に落ち込んだ場合、それをつかんで引き出さない人がいるでしょうか。どう考えても、人は羊よりずっと価値があるのではありませんか。それで、安息日にりっぱなことをするのは許されているのです」。それから、その人(片手のなえた人)に向かって、「あなたの手を伸ばしなさい」と言われた。それで彼が伸ばすと、それは元どりになり、他方の手のように健やかになったのである。しかし、パリサイ人たちは出て行き、イエスを滅ぼそうとして相談した。イエスはこれを知って、そこから退かれた。大勢の者もそのあとに従ったが、イエスはその人々もみな治された。しかし、ご自分のことを明らかにしないようにと彼ら(病気を治された人たち)に厳重に言い渡された。それは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。彼(預言者イザヤ)はこう言ったのである」(マタイ12:9~17)。
宗教指導者のパリサイ人たちは、心がねじ曲がっていました。「片手のなえた人」がイエスに治されるのを喜ぶのでなく、イエスを訴える理由を探していました。つまり「安息日に労働をした」と、言って訴えたたいのです。イエスはそのようなパリサイ人の考えは誤りであることを、分かりやすい実際的な例えを用いて親切に教えられました。人々は安息日であっても、自分の飼っている羊が「穴に落ち込んだ場合」、急いでその羊を穴からつかんで引き上げる、つまり助ける労働をすることを教えました。人々が安息日に一匹の羊を助ける好意を罪に定めないのであれば、まして羊より人間の方が価値があり、安息日に人を治すりっぱなことをするのは、神エホバから許されている、ことを教えました。これは道理にかなった教えでした。
しかし、パリサイ人たち、イエスの教えを素直に受け入れないばかりか、イエスを「滅ぼそうとして相談した」、つまり殺そうとして相談したのです。パリサイ人たちの心の邪悪さが浮き彫りになっています。当時の人々が羊飼いのいない羊のように放り出されていた状況が良く分かります。イエスは大勢の病気の人たちを引き続き治されました。しかし、イエスはそのように病気を治した人たちに、イエスに病気をたちどころに治されたことを言い広めないように、「厳重に言い渡された」ことが記されています。これは、預言者イザヤの言葉が成就するためであったことが記されています。その予言者イザヤの言葉を明日紹介致します。
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