イエス・キリストは弟子たちに、神の王国の真理を聞き、理解する人たちには、当然ながら責任も生じることを教えられました(マタイ13:31,32)。そのイエスはご自分の郷里に移動された時の、郷里の人々の不信仰な反応が次のようにマタイの福音書に記録されています。
「さて、これらの例えを話し終えると、イエスはそこから移って行かれた。そして自分の郷里に入ってから、そこの会堂で人々を教えはじめられた。その結果、人々は驚き入って、こう言った。「この人は、これほどの知恵とこうした強力な業をどこで得たのだろうか。これはあの大工(ヨセフ)の息子ではないか。彼の母はマリアと呼ばれ、兄弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。そして彼(イエス)の姉妹たちも、みんなわたしたちと共にいるではないか。では、この人はどこでこれらのすべてのことを得たのだろうか」。こうして彼らはイエスにつまずくようになった。しかしイエスは彼ら(郷里の人々)にこう言われた。「預言者は自分の郷里や自分の家以外なら敬われることはありません」。そして、彼ら(郷里の人々)の信仰の欠如のゆえに、そこでは(郷里では)強力な業を多くはなさらんかった」(マタイ13:53~58)。
イエスは弟子たちに神の王国の真理を、たとえ例えを用いて理解できるように教えられた後、郷里に移りました。郷里では会堂で人々に教えられました。しかし、郷里の人々は、イエスの教えや行われる業を見て、イエスの知恵と強力な業に驚き、どこでそのような知恵と業を得たのだろうか、考え、イエスが神エホバから遣わされている、ということを理解しませんでした。郷里の人々は、イエスのことを「これはあの大工の息子ではないか」と言って、つまずく、つまり聞いて学び信仰を抱くことはありませんでした。そのため、イエスは郷里では強力な業を多くはなさらなかった、ことが記されています。郷里の人々はイエスを通して神エホバからの多くの祝福を、信仰の欠如ゆえに得損なったのです。
切り花の 百合の並びし 道の駅 今日の一句
庭に咲く「ユリ」