イエス・キリストは「片手のなえた人」を安息日に治し、その後大勢の人々の病を治されました。イエスはそのように「片手のなえた人」や病気を治した大勢の人々に、そのように治したイエスのことを「明らかにしないようにと彼らに厳重に」注意しました。そのようにされたのは、「預言者イザヤが語った言葉が成就するためであった」ことが、述べられていました(マタイ12:9~17)。そして預言者イザヤが語った言葉がマタイの福音書に次のように記されています。
「見よ、わたし(エホバ)の選んだわたしの僕(イエス)、わたしの魂が是認した(エホバが是認した)わたしの愛する者!わたしは自分の霊(エホバの活動する聖霊の働き)を彼(イエス)の上に置き、彼は公正とは何かを諸国民に明りょうにするであろう。彼(イエス)は言い争わず、声を上げて叫ばず、まただれとて大通りでその声を聞くのでもない。彼(イエス)は打ち傷のついた葦(者)を砕かず、やがて公正を成功裏に送り出す。まさに、諸国民は彼(イエス)の名に望みをかけるであろう」(マタイ12:18~21)。
上記のマタイによって記されている預言者イザヤの語った言葉は、イザヤ11章10節、イザヤ42章の1、2、4節、イザヤ61章の1節、等々に記されています。イエスはヨルダン川で水のバプテスマ(浸礼)を受けた時に、み父エホバから「これはわたしの子、わたしの愛する者である、この者をわたしは是認した」と、公に宣言されました(マタイ3:16,17)。以来、イエスはみ父エホバからの活動する聖霊の働きが注がれ、神エホバの公正を、神の王国の良いたよりの福音宣明の業と病の人々を治す業において明らかにしました。イエスはパリサイ人たちとさえも言い争いをすることなく、何がエホバのご意志かを分かりやすく教えました。また、イエスは大声で、大通りで叫び業を宣明することはされず、都市から都市、村から村の家から家を訪れ神の王国の良いたよりを宣明しました(ルカ4:43;8:1)。ですから、「片手のなえた人」や、病気の治された人々が喜びのあまり、大声で明かしすることを避けられたのです。イエスはいつもみ父エホバのご意志通りに事が運ぶように、謙遜、かつ従順でした。イエスはみ父エホバが預言者イザヤを通して語られた通りに、安息日でも打ち傷のついた者、つまり「片手のなえた人」や大勢の病気の人たちを治されました。徒ペテロも、イエス・キリスト以外に「救いを得るべき名は、天のしたにないからです」と述べ、「諸国民は彼(イエス)の名に望みをかける」ということを明らかにしました(使徒4:12)。またローマ人への手紙の中でも、「エッサイの根があり、諸国民を支配するために起こる者(イエス)がいる。諸国民が彼(イエス)に希望を置く」であろうと述べたイザヤの預言の言葉を引照し説明しています(ローマ15:12.イザヤ11:10)。イザヤを通して語られた言葉は、すべて神の王国によって成就します。
復興の 願いの校歌 山青葉 今日の一句(NHKニュースを観て)
庭に咲いている「メドウセージ」