醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1265号   白井一道

2019-12-05 10:59:10 | 随筆・小説



    徒然草92段 『或人、弓射る事を習ふに、』



原文
 或人、弓射る事を習ふに、諸矢をたばさみて的に向ふ。師の云はく、「初心の人、二つの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、始めの矢に等閑(なおざり)の心あり。毎度、たゞ、得失なく、この一矢に定むべしと思へ」と云ふ。わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。懈怠(けだい)の心、みづから知らずといへども、師これを知る。この戒め、万事にわたるべし。

現代語訳
 或る人は弓を射ることを習う際に甲矢(はや)と乙矢(おとや)、一対二本の矢を手に挟み持って、的に向かう。師の言う所によると「初心の人は二本の矢を持ってはならない。後の矢があると思うから初めの矢に集中できない心の隙が生れる。毎度、ただ成功しても失敗してもこの矢に心を籠めるよう努めろ」と云う。わずかに二本の矢、師の前で一本の矢をおろそかにしようとするものはいないだろうがね。気の緩みが自分にあるとは思わないだろうが、師はこのような事を知っている。この戒めはすべての事に言えることだ。

原文
 道を学する人、夕(ゆうべ)には朝(あした)あらん事を思ひ、朝には夕あらん事を思ひて、重ねてねんごろに修せんことを期す。況んや、一刹那の中において、懈怠の心ある事を知らんや。何ぞ、たゞ今の一念において、直ちにする事の甚だ難き。

現代文
 
 仏道の修行に励む人にとって夕べに明日の朝はないと思い、朝には夕べはないと思って、重ねて十分に修行することを願う。況や、一瞬の中にあっても気の緩みがある事が分かっている。大事な事、それはただ今の一念において直ちにする事の甚だ難しいことだ。


 マラソン競技を思う   白井一道
 実際のマラソン競技を私は見たことがない。しかしマラソン競技のテレビ中継は何回も最初から最後まで見通したことが何回もある。ただ走っているだけの競技者を見ているだけなのにかかわらず飽きることがない。二時間近くテレビにかじりついて見続けてしまう。このマラソン競技の魅力とは何なのか。
 それは競技者の「懈怠(けだい)の心」と戦う姿にあるのではないかと『徒然草第92段』を読み、感じたことだ。マラソン競技者は一分一秒も集中力を研ぎ澄ますことなしには走ることができない。このマラソン競技者の気持ちのようなものがテレビの画面を通して伝わってくるからではないかと思う。マラソン競技はすべての陸上競技において最高の競技のようだ。だからオリンピック最後の競技であり、最高に盛り上がる競技である。全世界にテレビ中継され、視聴者は全世界で数十億人の規模になる世界的規模の陸上競技である。
 42.195キロの道をただ走るだけの競技が全世界で最も注目される競技がマラソン競技である。ただ走るだけ、このシンプルさがマラソン競技の魅力だ。この魅力の秘密は競技者の集中力の持続に視聴者も夢中になってしまうのだ。長距離をただ走るだけの競技の難しさ、それはいかに集中力を持続させることができるかと言う事なのではないか。兼好法師は述べている。「わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。懈怠(けだい)の心、みづから知らずといへども、師これを知る。この戒め、万事にわたるべし」。誰でも気が緩むことなどあり得ないとすべてのマラソン競技者たちは思っているに違いない。しかし二時間十分近くの間、気が緩むことがあるのだ。マラソン競技とは体力を競う競技であると同時に精神力を競い合う競技でもある。その緊張した精神力に視聴者は知らず知らずに引き込まれていくから二時間以上の時間があっという間に過ぎ去ってしまう。
 一分一秒も無駄な時間を使うことなく、走り通す。これがマラソン競技だ。この精神は座禅にも共通したものがあるように感じる。座禅もただ姿勢を正して座っているだけである。しかし集中力が途切れることがある。だから「文殊菩薩による励まし」という警策をいただく。樫や栗の堅い木の棒で肩を叩かれ、集中力の緩みを正される。座禅もまた一分一秒もおろそかにしてはならない精神の集中力を必要とする修行のようだ。