醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1267号   白井一道   

2019-12-07 11:23:12 | 随筆・小説



    徒然草94段 『常磐井相国、出仕し給ひけるに』



原文
 常磐井相国(ときはゐのしやうこく)、出仕し給ひけるに、勅書を持ちたる北面あひ奉りて、馬より下りたりけるを、相国、後に、「北面某は、勅書を持ちながら下馬し侍りし者なり。かほどの者、いかでか、君に仕うまつり候ふべき」と申されければ、北面を放たれにけり。

現代語訳
 常磐井相国(ときはゐのしやうこく)、西園寺実氏(さいおんじさねうじ)太政大臣が、出仕なされた時に、勅書をささげ持った北面の武士が太政大臣にお会いになりそのまま馬より下りたことを太政大臣は後に「北面の武士の何某は勅書を持ったまま下馬した者だ。このような者がいかほど主君にお仕えできようか」と申されたので、北面の武士は免職にされてしまった。

原文
 勅書を、馬の上ながら、捧げて見せ奉るべし、下るべからずとぞ。

現代語訳
 勅書は馬に乗ったまま、捧げて見せ奉るべきものだ。馬から降りてはならないものだぞ。

 儀礼を中世社会は重視した。  白井一道
 ヨーロッパにおける近代社会の始まりはルネサンスと宗教改革だと世界史の教科書は教えている。宗教改革は重要な出来事してマルチン・ルターやカルバンの宗教改革を取り上げている。ルターやカルバンは何をしたのかというとその一つが結果として儀礼の重要性を否定したことではないかと私は考えている。
 ルターは聖書に基づく信仰を主張した。キリスト教会の僧侶たちの教えに従うこと、善い行いをすることが魂を救うものではないとルターは主張した。善い行いとしての協会への喜捨、贖宥状(免罪符)を購入することは無意味なものだとルターは主張し、聖書の教えに従い、神への信仰が大事なことだと述べた。神の声を表したものが聖書だ。聖書を読むことは、神の声を聴くことだということになった。
当時(16世紀)、ドイツのキリスト教会ではラテン語で書かれていた聖書を使用していた。ラテン語の読み書きができたのはキリスト教会の僧侶たちだけだった。当時、ラテン語は全ヨーロッパのキリスト教会で使用されていた普遍的な言語だった。そのラテン語の聖書をルターは民衆が使用していた民族語としてのドイツ語に翻訳した。ドイツ語の読み書きの出来る人々が直接神の声を聴くことができる聖書を読むことができるようにしたのがマルチン・ルターであった。
 庶民はキリスト教会に通い、十分の一税を支払い、ミサに参加する善い行いをすることの無意味性をルターは主張した。このルターの主張は結果的に神の見えない恩寵を表したものとしての秘跡(サクラメント)の重要性を否定することになった。カトリック教会が重視する七つの秘跡とは、洗礼、堅信、聖体、
ゆるし、病者の塗油、叙階、結婚である。これらの秘跡と言いう名の儀式である。これらの儀式に参加することが魂の救済、最後の審判で天国へと導かれるとするカトリック教会の教えをカルバンは否定した。
 宗教改革は結果的にカトリック教会が主宰する秘跡という名の儀式が魂の救済とは無関係だと告げるものだった。
儀礼を尽くすものが儀式である。儀式は儀礼に始まる。この形式を重視する思想が儀礼や儀式にはある。この形式を重視することが儀礼を重視することだ。それに対して内容を重視する思想が聖書主義にはある。聖書に基づく信仰が人間の魂を救済するという思想だ。
旧教と言われたカトリック・キリスト教は儀礼や儀式という形式を重視することに対してプロテスタント・キリスト教は信仰という内容を重視するようになった。形式より内容を重視するというところに近代思想がある。形式は内容ほ盛り込む入れ物だと考えるならば内容は形式なしには存在しえない。形式があって初めて内容もまた存在し得る。新しい内容は新しい形式なしには存在しえない。古い内容を盛り込む形式は新しい内容が生れてくると形式もまた新しい形式が必要とされる。形式と内容は一体のものだから。封建的な思想を具体化したものの一つが儀礼であり、儀式だった。封建的な儀礼が封建制を秩序していた。