醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1277号   白井一道

2019-12-17 11:09:31 | 随筆・小説



    徒然草103段 『大覚寺殿にて』



原文
 
 大覚寺殿にて、近習の人ども、なぞなぞを作りて解かれける処へ、医師忠守参りたりけるに、侍従大納言公明卿、「我が朝の者とも見えぬ忠守かな」と、なぞなぞにせられにけるを、「唐医師」と解きて笑ひ合はれければ、腹立ちて退り出でにけり。

現代語訳
 後宇多院の御所である大覚寺殿で法皇に仕える者たちがなぞなぞを作り解く遊びをしている所に医師の忠守がやって来ると侍従大納言公明卿が「我が国の者とも見えない忠守かな」となぞなぞを作ると法皇に仕える者どもが「その心は唐医師」と解き笑い合うと医師の忠守は立腹して帰ってしまった。


 現代の帰化人の子孫について      白井一道

 今から400年近く前、豊臣秀吉は二度にわたる朝鮮侵略戦争をした。この侵略戦争で朝鮮から略奪した物の一つが陶器とその陶工たちであった。
 二度目の朝鮮侵略戦争、慶長の役(1598)の戦利品として薩摩藩主、島津義弘が朝鮮から連れ帰った陶工の一人が沈当吉である。この沈当吉から数えて15代続く薩摩焼の窯元が沈壽官窯 (ちんじゅかんがま) のようだ。国の伝統的工芸品指定を受けている「薩摩焼」を代表する窯元のひとつになっている。初代をはじめ薩摩にたどり着いた陶工たちは、鹿児島県日置市東市来町美山の地が祖国に似ているとの理由で、この地に住みついたと言われている。
以来、沈壽官窯は島津家おかかえの御用窯として発展、沈壽官窯の代名詞、美しい白薩摩が生れた。
鉄分を含んだ桜島の火山灰が降り注ぐ鹿児島では、黒っぽい土ばかりである。そのようななかにあって島津家から白い焼き物を作れと命を受け、初代沈当吉たちは7年の歳月をかけて白い土を探し、ようやく見つけた白土で器を焼き、島津家に差し出すと、喜んだお殿様がその功績をたたえ、薩摩焼と名付けた。これが薩摩焼の始まりだと文献にある。当時の日本は、朝鮮の美しい白磁器に強い憧れを抱いていた。しかし、鹿児島では磁器に適した土は見つからず、陶工たちは陶器で白い器を作った。 喜んだ島津家はこれを独占し、民間には黒い器の使用だけを許した。工房は工程ごとに部屋が分かれている。これも実は島津家の「戦略」の名残である。万が一陶工が他の藩に取られてしまった時に、分業制にしておけば器を完成させることができない。それで島津家は完全な分業制を窯に命じた。今でもろくろを回す人はろくろを、絵付けの人は絵付けだけを生涯専門で行うのが、沈壽官窯の伝統である。工房は、工程ごとに部屋が分かれている。これも実は島津家の「戦略」の名残である。万が一陶工が他の藩に取られてしまった時に、分業制にしておけば器を完成させることができない。それで島津家は完全な分業制を窯に命じた。今でもろくろを回す人はろくろを、絵付けの人は絵付けだけを生涯専門で行っている。これが沈壽官窯の伝統ようだ。基本の形を作ったら、白薩摩は「透し彫り」や「絵付け」の工程に進む。透し彫りは幕末から明治を生きた12代沈壽官が生み出した技術だ。何種類もの道具を使い分け、土がやわらかい内に表面に穴をあける。形が整ったら、次は絵付け、白薩摩の絵付けは、幕末の名君として知られる島津斉彬 (しまず・なりあきら) の命で始まり、成功させたのも12代の時代である。二つの国のあいだの空間そのものを楽しんでもらいたいというのが沈壽官窯元の意向である。日本のようで、朝鮮を思わせるような、不思議な空間があるという。
 面玄関。奥には日韓の国旗と、朝鮮の守り神の像が立っている正面玄関がある。
 初代が窯を築いた当時、島津家は陶工たちに朝鮮で暮らしていた通りの生活を命じたという。ですから今でも朝鮮式の呼び名のついた道具などが残っている。古式にならった様々な道具、それは焼き物の先端を行く朝鮮の器づくりを取り入れる目的ももちろんあるが、もう一つ、彼らや彼らの子供達を、日本語も朝鮮の言葉も話せる通訳として起用する狙いがあったようだ。そのために、もともとの民俗風習を忘れさせないようにしたという。
沈壽官窯元では何を見ても何を聞いても、あらゆるものが歴史の中の物語につながっていく。
焼き物の神様をお祭りした朝鮮式の祠がある。現代日本の陶磁器文化は朝鮮の陶磁器文化なしには成立していない。それにもかかわらず朝鮮文化を敬わない日本人が一部に存在している。哀しい日本の現実だ。