醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1370号   白井一道

2020-04-04 11:14:22 | 随筆・小説



   
 徒然草第195段或人、久我縄手を通りけるに


原文
 或人、久我縄手(こがなわて)を通りけるに、小袖に大口着たる人、木造りの地蔵を田の中の水におし浸して、ねんごろに洗ひけり。心得難く見るほどに、狩衣の男二三人出で来て、「こゝにおはしましけり」とて、この人を具して去にけり。久我内大臣殿にてぞおはしける。
 尋常(よのつね)におはしましける時は、神妙に、やんごとなき人にておはしけり。

現代語訳
 或る人が鳥羽の作道、久我縄手(こがなわて)を通っていると、小袖に袴を着た人が木造の地蔵を田の中の水に浸して懇ろに洗っていた。不思議に思って見ていると狩衣を着た男が二、三人表れ、「ここにいらっしゃった」と言って、この人を連れて行ってしまわれた。久我内大臣殿でいらっしゃる。
 正気でおられたときは、殊勝にも立派な方でいらっしゃられた。

 認知症とは  白井一道
 今、電話で話した人が誰であったのかが分からなくなってしまう。誰と話したのかなと考え込んでしまう。こんなこと、珠にありますよね。
同じことを何度も言わなくちゃ、安心できない。何回も同じことを問うてみなければ納得できない。そんなことが年取ると起きてくるように思いますね。
しまい忘れ置き忘れが増えいつも探し物をしている。
財布・通帳・衣類などを盗まれたと人を疑うことがある。こんなことになるともしかして、認知症なのかと不安になる。
 認知症と老化には、似た現象があるが、大きく異なっているようだ。確かに年をとると物忘れしがちであるが、 脳の認知機能に障害が起き、物を忘れてしまう事とは違っている。一切をすべて忘れてしまうのが認知症のようだ。昨日は東京に行き、若かったころ、よく時間ができた時など銀座の街を歩いたことを思い出し、服部時計店の五階催し会場に行った。そうだ。五階では何が催されていたのか、思い出そうとしても思い出せないことがある。このようなことは老化によるもの忘れなのであろうが、認知症によるもの忘れは昨日、東京に行き、銀座の街を歩いた事をすべて忘れてしまうようだ。脳の認知機能に障害が生じた結果のようだ。だから昨日は歌舞伎座ではなく、新橋演舞場で行われた歌舞伎を見に行った。歌舞伎を見終わり、酒を飲むにはまだ間があったので銀座の街をぶらぶらしたのだ。このような時間や場所の記憶がすべてなくなってしまうのが認知症のようだ。時間や場所の見当がつくのが老化だとすると皆目見当がつかなくなるのが認知症のようだ。忘れたと自覚できるのが老化のようだが、忘れた自覚がないのが認知症のようだ。だから老化は日常生活に幾分障害がでるが決定的な障害を防ぐことが可能だが、認知症の場合は日常生活に大きな障害が出るようだ。
 記憶を失う。私は何の何平だという自覚を失うことは、私は私であると言う自覚を失うことである。私が私でなくなる。記憶が私は私だということを担保している。記憶がなくなると私は私でなくなる。記憶があって初めて私は人間であるという自覚ができる。記憶が人間をして人間たらしめている。記憶を失っても生物的には人間は人間であり続けるが、社会的には人間が記憶を失うと人間は人間ではなくなってしまう。重度の認知症患者は生物的には人間であっても社会的には人間ではなくなってしまうから大変なのであろう。
 記憶を失うことは歴史を失う事でもある。歴史があってこそ今、現在がある。現在の私は今までの私の結果である。記憶があってこそ、今がある。記憶を失うことは今、現在を失うことでもある。人間とは記憶である。記憶の集積の結果が今の私である。文書として記憶を残すことが人間である。図書館の存在は人間にとって無くてはならないものなのであろう。古代ギリシアの時代から、いや人類の誕生以来、人間は記憶を残す営みを絶やす事はなかった。人間が人間であり続けるために記憶を残す営みをし続けてきた。その結果の一つが原始社会の洞窟壁画である。フランス、ラスコー洞窟、ラ・マルシュ洞窟 - リュサック・レ・シャトー近郊、ショーヴェ洞窟 - バロン・ポン・ダルク近郊。スペイン、アルタミラ洞窟。これらの洞窟壁画は人類の誕生を意味する記憶の誕生でもある。壁画として記憶を残す。この記憶が人間を人間にしていった。記憶を積み重ねることが人間を作りだした。