醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1378号   白井一道

2020-04-12 10:18:21 | 随筆・小説



  徒然草第204段 犯人を笞にて打つ時は



原文
 犯人(ぼんにん)を笞(しもと)にて打つ時は、拷器(がうき)に寄せて結(ゆ)ひ附(つ)くるなり。拷器の様も、寄する作法も、今は、わきまへ知れる人なしとぞ。

現代語訳 
 犯人を鞭打ちの刑に処するときには、拷問をする道具に縛り付けたものだ。しかし、今ではこの器具の構造も、縛り方も誰も知らないという。
 
 ヨーロッパ中世社会の刑吏について 白井一道
 刑吏の悲惨な運命はすでに産声をあげたときにはじまっていた。刑吏の妻が産気づいても近所の女は誰一人として手伝いに駆けつけなかった。市民であればツンフト(同職組合)の仲間の家族や近隣の女が大勢手伝いに来たのだが、刑吏の家族に手を貸せば《名誉ある》市民もにおち、同職組合から除名されたからである。長ずるに及んでも刑吏の子には刑吏以外の職業はえらぶこともできなかった。どこの都市の同職組合もの子弟を徒弟として受け入れることを禁じていたからである。
刑吏の子弟の多くは中・近世のドイツ農村のハーゲシュトルツのように終生結婚もできなかった。刑吏の娘もまた刑吏以外の者と結婚することは許されなかった。
もし刑吏が一般の人々が行くロカール(居酒屋)で飲もうと思ったら、彼は戸口のところに立って帽子を少しもちあげ、自分の職業を示し、客のだれかが彼の来たことに抗議するかどうか忍耐強く待たねばならなかった。もしだれかが抗議すれば彼は無言で立ち去った。客がだれも抗議しなければ彼は隅の特性の三本足の椅子に座り、把手のないhenkellos(Henker刑吏とかけた言葉)ジョッキで飲まねばならなかった。これは大変不名誉なことであったから、事実上彼らは居酒屋から締め出されていたことになる。ハンブルクの刑吏は市参議会堂の地下にある食堂では自由に飲むことができた。そこは刑吏の酒場と呼ばれたのである。
ヨーロッパの苗字の多くが職業名であるところから単なる記号として割り切ることのできない苗字も多く残っている。マックス・ヴェーバーの苗字が織匠という意味であるといっても、エーリッヒ・シュミットのそれが鍛冶屋という意味であるといっても、その職業の歴史はその苗字の遠い歴史の彼方に消えてゆき、織匠としてのヴェーバー、鍛冶屋としてのシュミットを考える人はいない。
しかし「死刑執行人」「刑吏」という苗字をもって生まれたとしたらどうだろうか。これも過去においては社会的に重要な職業の名であるから恥じる必要は全くない。たとえ刑吏が過去においてであって、刑吏に触れた者もの地位におちてしまうほど、蔑視され怖れられた存在であったとしても、19世紀にはとしての地位は消滅し、刑吏も市民権を獲得している。
だが分別もさだかではない子どもの頃にはどうだっただろうか。幼少の頃にこの苗字のために遊び友達からからかわれ、はやしたてられ、口惜しい思いをしなかっただろうか。幼いときには全く自分のあずかりしらぬ何かのために苦しまなければならないことがしばしばある。それは私たちの一日をよぎってゆく歴史の影なのである。
エルゼ・アングストマンElse Angstmannが自分の苗字の研究から出発して刑吏という名前の歴史的・地理的分布を調べ、民衆が刑吏をどのような目で眺めてきたのかを明らかにしようとしたとき、幼少期の理不尽で口惜しい体験が奥深いところで彼女の研究を支えていたのではないかと、私はつい想像してしまう。
かつて賤視されたひとびとが存在した、という歴史がある。そして、いまやそうしたひとびとはいなくなってしまったのだが、その痕跡はなおも残っている。蔑まれたひとびとの存在を歴史的に抹消しないこと、そのひとたちをもう一度殺してしまわないことだ。
話を戻すと、中世後期や近世において刑吏はであった。とはいえ素朴な問いは次である。実に「刑吏は裁判で判決を受けた犯人に刑を執行する者であり、その裁判が正常に運営されている限り、非難されるべき理由はない」のであるが、それにもかかわらずなぜ処刑執行人はかくも賤視されたのであろうか。答えの一部は、読者の誰しもが察しうるように、刑罰に伴う〈血〉と〈死〉に関連するからである。
阿部勤也著『刑吏の社会史』より