徒然草第199段横川行宣法印が申し侍りしは
原文
横川行宣法印〈よかわのぎやうせんほふいん〉が申し侍りしは、「唐土(たうど)は呂(りよ)の国なり。律の音なし。和国は、単律の国にて、呂の音なし」と申しき。
現代語訳
横川〈よかわ〉の行宣法印(ぎやうせんほふいん〉がおっしゃられたことによると、中国は呂旋の国である。律の旋律はない。和国は律旋だけの国であり、呂旋律はないと申された。
笙篳篥(しょうひちりき)の魅力 白井一道
東儀秀樹氏は雅楽の魅力を次のように説明している。
「雅楽は上代から伝わる日本固有の音楽と1400年ほど前から順次朝鮮半島や中国大陸などから伝来した古代アジア諸国やシルクロードの芸能に基づき、またはその影響を受けて日本で熟成され、平安時代中期に完成し、そのまま原形のまま存在している世界最古の音楽芸術です。陰陽道といわれるもの、つまり古代の哲学や天文学や統計学、自然界との調和などが織り込められた計り知れない完成度をもつ芸術です。古代より決められた家(「楽家」(がっけ)という)によって口伝で正確に継承されてきました。
表現としては、「管絃」「舞楽」「歌謡」の三つの形態があり、古来から皇室の典礼、御遊、また神社仏閣の祭典などにも奏されてきました。
「管絃」は楽器だけの演奏表現で、正式には笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、龍笛(りゅうてき)の三種の管楽器、琵琶、箏の二種の絃楽器、太鼓、鞨鼓(かっこ)、鉦鼓(しょうこ)の三種の打楽器の編成で演奏されます。指揮者のいないこの演奏はアンサンブルの極致ともいわれるもので、その神髄に迫る演奏をするには担当する楽器に精通することはもちろんですが、共に演奏される八種類の楽器の動きを充分に把握し、演奏者同士の息(意気)や、間を感じ合うことが大切になります。そのため雅楽師というのは主の管楽器のほか、絃楽器のひとつ、打楽器すべて、そのほか舞や歌もマスターしなければ成り立たないのです。
「舞楽(ぶがく)」は音楽とともに奏する舞で、一人で面を付けて躍動的に表現するものや四人から六人でゆったりと優雅に舞うものなど、さまざまな表現があります。「国風舞(くにぶりのまい)」-日本古来の舞いに基づいたもの、「左方舞(さほうのまい)」-中国や東南アジアなどから渡ってきたものに基づいたもの、「右方舞(うほうのまい)」-朝鮮半島から渡ってきたものに基づいたものに分けられ、それぞれ伴奏形態、色彩、舞振りなどに異なる特徴があります。
「歌謡」は雅楽器の伴奏をつけた声楽曲で、大きく「国風歌(くにぶりのうた)」、「催馬楽(さいばら)」、「朗詠(ろうえい)」の三つの種類があります。「国風歌」は日本古来の原始歌謡に基づいたもので、神話の世界で歌われたとされるものがこの起源といわれ、多くは儀式用になります。「催馬楽」は平安時代、馬を牽くときに歌われた風俗歌から発展し、宮中で貴族が楽しむ歌曲となりました。「朗詠」は中国の漢詩に平安時代に日本人がメロディーを付けて、やはり貴族たちの間で流行したといわれている歌です。」
私の雅楽体験は中学生の頃に聞いた春日大社で演奏された雅楽に尽きる。月見の夕べに催された雅楽である。音色に魅了されたのだ。平安貴族が楽しんだ気持ちが分かったような気分になったものだ。
月光の魅力が十二分に表現されていた。その時の感動が今も私の脳裏に焼き付いている。決してベートーベンのピアノソナタ『月光』に勝るとも劣るものではないと感じた記憶が残っている。私は雅楽の音色に日本を感じるのだ。洗練された高度な音色に平安時代の日本人の音楽の高さが雅楽にはあるように私は感じている。もっともっと日本人は日本古来の文化に誇りを持っていいのだと雅楽を聞くと感じるのだ。
雅楽の音色には日本の空気が合っている。日本の空気に雅楽の音色はマッチする。雅楽の音色が風に乗るとそこには新たな別世界が出現するのを私は感じる。その世界は西洋の音楽を聴いた時に感じる世界とは異質なものだ。私の皮膚にマッチする快いものなのだ。雅楽の世界に誘ってくれるこの笙篳篥の音色が西方極楽浄土の世界を表現していると感じるのだ。ここが極楽浄土だと感じさせるのだ。このような感覚を西洋音楽を聴き、感じることはない。