徒然草第203段勅勘(ちよくかん)の所に
原文
勅勘(ちよくかん)の所に靫(ゆき)懸(か)くる作法、今は絶えて、知れる人なし。主上(しゆしやう)の御悩(ごなう)、大方、世中の騒がしき時は、五条(ごでう)の天神に靫を懸けらる。鞍馬に靫の明神といふも、靫懸けられたりける神なり。看督長(かどのおさ)の負ひたる靫をその家に懸けられぬれば、人出で入らず。この事絶えて後、今の世には、封を著くることになりにけり。
現代語訳
天皇のご不興をたまわり勅命によって譴責された家には矢を盛って背に負う器、靫(ゆき)を懸ける作法が今は無くなり、知る人もいない。天皇のご病気、また流行病が蔓延し、世の中が騒がしい時は五条の天神に靫(ゆき)を懸ける。鞍馬の靫(ゆき)の明神というものも靫(ゆき)を懸けられた神様である。検非違使庁の下官、看督長(かどのおさ)が負っている靫(ゆき)をその家に掛けられるなら人の出入りができなくなる。この事例が無くなってから後、今の世になってからは門に封印を付けるようになった。
刑罰について 白井一道
中世の荘園では、犯罪をおかした者の家屋を、公家や寺社などの荘園領主が焼き払うという措置をしばしば行っていた。
この措置のウラにある当時の人々の意識を解き明かしたのが、勝俣氏による「家を焼く」の考察である。当時の人々は「犯罪」を「穢れ」と考えていた。そのために荘園領主の行う「刑罰」は犯罪者に制裁を加えるというよりも、それによって生じた「穢れ」を除去する「祓い」「清め」としての意味をもったという。そのための措置が、一見無意味にすら思える犯罪者家屋の焼却処分だったのである。
漆黒の闇が支配した中世の夜は、昼間の世界とはまったく異なるルールが存在していたという。
夜中に稲を刈ったり、作物をもって村内を通行した者は厳罰に処す。その一方で、武士たちの「夜討ち」は卑怯な不意打ちどころか、一種の武芸として許容されていた。この時代、夜には「夜の法」があり、「昼の法」はまだ限定的にしか社会に影響をおよぼしてはいなかった。
つまり、中世の人びとは私たち現代人とはまったく異なる犯罪観をもっており、それにともない刑罰も私たちの想像を超える実態をもっていたのだ。
同じく笠松氏による「盗み」の考察によると、当時の一般庶民は盗みを極端に忌避しており、そのために村落内では盗犯はどんなに少額であったとしても死罪(ともすれば一家皆殺し)であったという。
ところが、一方で為政者(公家・武家)の側は、これをさほどのこととは考えておらず、一様に盗みに対しては寛大な姿勢を示し、むしろ村落側のリンチの暴走に歯止めをかけようとすらしている。
権力はつねに豺狼(さいろう)のように暴虐で、庶民はつねに子羊のように柔弱だったなどと侮ってはいけない。そこには、ときに鎌倉幕府すらも戸惑わせた過酷な民衆社会の一側面が垣間見える。
犯罪によって生じた「穢れ」を「祓う」ことに執着した公家や寺社などの荘園領主たちとは対照的に、武士たち在地領主は犯罪者の身柄を積極的に自身の組織に組み込むことで権益の拡大を果たしたのである。
寺社や公家と、武士と、庶民で、まったく異なる刑罰観が併存している驚くべき実態がある。これも政治権力が分散し、秩序が多元的に存在した中世社会ならではの現象といえるだろう。
中世ヨーロッパ社会にあって刑罰とは次のようなものであった。
中世盛期以前のヨーロッパにおいては〈制裁〉などの意味をもつ近代的「刑罰」は存在せず、むしろ違法行為の後に科せられる「刑罰」は第一に〈秩序回復〉の意味をもっていた。
「ひとつの犯罪が起こったとき、問題となるのはその犯罪によって生じた傷を治すことであった。必ずしも、あるいは第一に被害者の傷に対して損害の賠償がなされるのではなく、彼が生きている世界の秩序への攻撃に対して防衛しなければならなかったのである。だからこそ犯人がどのような動機で行動したのかはどうでもよいことであった。同様に犯人の行為を倫理的な基準で評価することも意味のないことであったにちがいない」。
阿部勤也著『刑罰の誕生』より