徒然草第197段諸寺の僧のみにもあらず
原文
諸寺の僧のみにもあらず、定額〈ぢゃうがく〉の女孺(によじゆ)といふ事、延喜式に見えたり。すべて、数定まりたる公人(くにん)の通号(つうがう)にこそ。
現代語訳
もろもろの寺の僧侶の定員、定額は、僧侶だけではなく、「定額〈ぢゃうがく〉の女孺(によじゆ)」という言葉が延喜式にあるということは、宮中に奉仕する下級の女官にもすべて定員が定まっていた。
古代社会にあって、宮廷に仕える人々はすべて僧侶も含めて公務員であった 白井一道
近代以前の社会にあっては、支配する者と支配される者とが明瞭に区別されていた。支配する者の姿、格好、服装からしぐさまでが視覚化された社会であった。支配するということが公務であった。支配される人々の事は一切無視されていた。人の口をきく動物以外の何ものでもなかった。
僧侶は支配する者たちに仕える支配のイデオロギーを普及する役割を担っていた。だから政府から給与されて生活していた。だから寺には定員があった。宮廷に仕える人々も支配する側にいた。だから定員があった。支配される民衆は生涯、天皇を頂点とする支配階級に富を献上するのみだった。
「税」という字は「禾」が意味を表す意符であり、「兌」が音符のようだ。「禾」とは、稲の収穫を意味する。農民が収獲した実りを天皇に奉げたものが税である。人民一般が働き獲得した富を天皇に奉げることを栄誉する精神構造を創りあげた者が僧侶であり、神官たちである。天皇自身が神として君臨した社会が奈良、平安の時代である。兼好法師が生きた時代は古代天皇制社会が崩れ出し、東国を中心に天皇支配する力が徐々に弱体化していった時代である。関西以西の地域にあってはまだまだ古代的な天皇支配体制が強固に残存していた。
支配の体制が天皇と天皇を支える貴族たちから武家と言われる人々に変わっていくことによって、人民、民衆の意識が少しずつ変わり、農村共同体が自立していく傾向が出てくる。このような時代に兼好法師は生きていた。