徒然草第200段呉竹は葉細く
原文
呉竹は葉細く、河竹は葉広し。御溝(みかわ)に近きは河竹、仁寿殿(じじゆうでん)の方に寄りて植ゑられたるは呉竹なり。
現代語訳
呉竹は葉が細く、河竹は葉が広い。宮中の庭に流れる小川に近い所に生える竹は河竹、仁寿殿(じじゆうでん)の方に寄りて植えられているものは呉竹である。
竹を詠んだ万葉集から 白井一道
万葉の時代から日本人は竹を愛して来た。
吉備(きび)の津(つ)の采女(うねめ)の死(みまか)りし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌一首
秋山の したへる妹 なよ竹の とをよる子らは いかさまに 思ひをれか 栲繩(たくなは)の 長き命を 露(つゆ)こそは 朝(あした)に置きて 夕(ゆふへ)は 消(き)ゆと言へ 霧こそは 夕(ゆふへ)に立ちて 朝(あした)は 失(う)すと言へ 梓弓(あづさゆみ) 音聞くわれも おほに見し 事悔(くや)しきを 敷栲(しきたへ)の 手枕(たまくら)まきて 剣刀(つるぎたち) 身に副(そ)へ寝(ね)けむ 若草の その夫(つま)の子は さぶしみか 思ひて寝(ね)らむ 悔(くや)しみか 思ひ恋ふらむ 時ならず 過ぎにし子らが 朝露のごと 夕霧のごと 〈巻二(二一七)〉
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秋山の美しく色づくような妻、なよ竹のようにしなやかな子は、なにを思ってか栲の縄のように長き命を、露ならば朝に置いて夕べにはもう消えるという。霧ならば夕べに立って朝にはもう失せるという。梓弓の音のように噂に聞いていた私もぼんやりとしか見たことはないけれど、栲を重ねたの枕のように手を重ね合い、剣や刀のように身に添えて共に寝た若草のような夫は、さびしく悲しみながら寝ているだろうか。死なせてしまったことを悔やんで悲しみ恋ているだろうか。思いもかけず死んでいった子が朝露のように、夕霧のように…
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この歌は吉備の国の都宇(つ)郡(現在の岡山県都窪郡)出身の采女が亡くなったときに、柿本朝臣人麿(かきのもとのあそみひとまろ)が詠んだ挽歌です。
結句の「朝露のごと 夕霧のごと」は「朝露のように夕霧のように…采女のことが思われる」の意味。
歌の中に「敷栲の 手枕まきて 剣刀 身に副へ寝けむ 若草の その夫の子(栲を重ねたの枕のように手を重ね合い、剣や刀のように身に添えて共に寝た若草のような夫)」と出てきますが、通常、采女は結婚できない決まりなのでこの采女はそのことを悔やんで入水自害したのではないかと言われています。
人麿自身はこの采女を「おほに見し(ぼんやりとしか見たことはないけれど)」と詠っていますが、そのような特別深い関係はなかった人物にこれだけの挽歌を詠んでいるのは采女の無念の怨念を畏れた朝廷の命によって作った挽歌だからなのでしょうね。
この時代の人々は無念の思いを抱いたまま死んだ者の魂はその場所をさ迷い、その怨念が人々に祟りとなって災いをもたらすと信じていました。
そしてこの歌のようにその死者の無念の魂に語り掛ける挽歌を詠み、その無縁の魂を慰めることで災いを避けようとしたのです。 黒路よしひろ著
近代になると、エジソンが京都の真竹の繊維を炭化して電球のフィラメントを作っている。
『竹の民俗誌』沖浦和光著を読むと竹の文化には深い闇の文化がある事を知る。