醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1391号   白井一道

2020-04-25 10:10:04 | 随筆・小説


   
 徒然草第217段 或大福長者の云はく



原文
 或大福長者の云はく、「人は、万をさしおきて、ひたふるに徳をつくべきなり。貧しくては、生けるかひなし。富めるのみを人とす。徳をつかんと思はば、すべからく、先づ、その心遣ひを修行すべし。その心と云ふは、他の事にあらず。人間常住の思ひに住して、仮にも無常を観ずる事なかれ。これ、第一の用心なり。次に、万事の用を叶ふべからず。人の世にある、自他につけて所願無量なり。欲に随ひて志を遂げんと思はば、百万の銭ありといふとも、暫(しばら)くも住すべからず。所願は止む時なし。財(たから)は尽(つ)くる期(ご)あり。限りある財をもちて、限りなき願ひに随ふ事、得(う)べからず。所願心に萌(きざ)す事あらば、我を滅すべき悪念(あくねん)来れりと固く慎み恐れて、小要(せうえう)をも為すべからず。次に、銭を奴(やつこ)の如くして使ひ用ゐる物と知らば、永く貧苦を免るべからず。君の如く、神の如く畏れ尊(たふと)みて、従へ用ゐる事なかれ。次に、恥に臨むといふとも、怒(いか)り恨(うら)むる事なかれ。次に、正直にして、約を固くすべし。この義を守りて利を求めん人は、富の来る事、火の燥(かわ)けるに就き、水の下(くだ)れるに随ふが如くなるべし。銭積りて尽きざる時は、宴飲(えんいん)・声色(せいしよく)を事とせず、居所を飾らず、所願を成ぜざれども、心とこしなへに安く、楽し」と申しき。
 そもそも、人は、所願を成ぜんがために、財を求む。銭を財とする事は、願ひを叶ふるが故なり。所願あれども叶へず、銭あれども用ゐざらんは、全く貧者と同じ。何をか楽しびとせん。この掟(おきて)は、たゞ、人間の望みを断ちて、貧を憂(うれ)ふべからずと聞えたり。欲を成じて楽しびとせんよりは、如(し)かじ、財なからんには。癰(よう)・疽(そ)を病者、水に洗ひて楽しびとせんよりは、病まざらんには如かじ。こゝに至りては、貧・富分く所なし。究竟は理即に等し。大欲は無欲に似たり。

現代語訳 
 或る大富豪が言っている。「人はまず何をさしおいても金を獲得しなければならない。貧しくては生きている甲斐がない。豊かな人だけが人である。富を得ようと思うなら、是非ともまずその心遣いを学ばなければならない。その心というのは他でもない。世の中は変わりないという考えに落ち着けて、仮にも無常だと思うことがあってはならない。これが第一に用心すべきことである。次にあらゆる用事を思い通りに果たしてはならない。自他につけて願うことは限りなくある。その欲に支配され思い通りにしようとするなら百万の金があったとしてもたちまちなくなってしまう。欲が治まることはない。富には尽きる時がある。限りある富なのに、限りない欲望に支配されるなら富を得ることはできない。欲が心に起きて来ることがあるなら、これは我を滅ぼす悪い気持ちだと堅く慎み恐れてお金を使うことをしてはならない。次にお金を使用人のように使えるものだと考えていると、いつまでたっても貧苦から免れることはない。君子のように神様のように畏れ尊びて心置きなく使うことがあってはならない。次に恥ずかしいという事があっても怒ったり、恨んだりすることをしてはならない。また、正直に約束は堅く守るべきだ。この義理を守り、利を求めようとする人には富がくることは、火が乾いた所に向かって燃え広がり、水は低い所に向かって流れて行くように当然のことである。お金が溜まり、尽きることがなくなっても、酒盛りや音楽、女色に溺れる事をせず、住まいを飾ることをせず、願いを実現してもいつまでも変わることなく質素に楽しく生きることだ」とおっしゃっている。
 そもそも人間は欲望を実現するために富を求めてる。お金を富みとすることは、願いを叶えるためである。欲望はあるけれども叶えることをせず、お金はあっても使うことをしない人は全く貧しい人と同じだ。何を楽しみとしているのか。この戒めは、ただ人間の望みを絶ち、貧しさを憂いてはならないと言われているようだ。欲望を実現して楽しむよりは欲望がなく、富がない方がいい。悪いできもの、癰(よう)・疽(そ)を病む者、水で洗って何とかしようとしている者より病むことがない方がいいに決まっている。ここに至っては貧しい者と富んだ者との区別はつかない。行き着いたところは同じ。欲望に満ちていることは無欲である事に似ている。