徒然草第 206段 徳大寺故大臣殿
原文
徳大寺故大臣殿(とくだいじのこおほいとどの)、検非違使の別当(べつたう)の時、中門にて使庁(しちやう)の評定(ひやうぢやう)行はれける程に、官人(くわんにん)章兼(あきかね)が牛放れて、庁の内へ入りて、大理の座の浜床(はまゆか)の上に登りて、にれうちかみて臥(ふ)したりけり。重き怪異(けい)なりとて、牛を陰陽師(おんやうじ)の許へ遣(つかは)すべきよし、各々申しけるを、父の相国聞き給ひて、「牛に分別なし。足あれば、いづくへか登らざらん。尫弱(おうじやく)の官人、たまたま出仕の微牛(びぎう)を取らるべきやうなし」とて、牛をば主に返して、臥したりける畳をば換へられにけり。あへて凶事(きようじ)なかりけるとなん。
「怪しみを見て怪しまざる時は、怪しみかへりて破る」と言へり。
現代語訳
徳大寺の右大臣が検非違使庁の長官であった時に徳大寺家の中門の廊の間で検非違使庁の事務の評決がおこなわれていた時に下級役人の牛車の牛が車から放れて庁内に入り込み、長官の座る浜床の上に登り反芻しては口を動かし横になった。重大な奇異な事だと牛を陰陽師(おんやうじ)のもとに連れて行き、占わせるべき旨を使庁の役人たちが検非違使庁の長官に告げたところ、父の長官は事情をお聞きになり、「牛には分別と言うものはない。足があれば、どことなり登ることがあろう。薄給の下級役人がたまたま仕事に出て来た時に使った痩せた牛を取り上げる理由はなかろう」と言い、牛を持ち主に返し、牛が横たわった畳を取り換えられた。敢て凶事にしなかったという。
「怪しいものを見ても怪しむことがなければ、怪しいものではなくなる」と言われた。
松岡正剛 千夜千冊より
紹介 『浅草弾左衛門』 塩見鮮一郎著
家康が認めた浅草弾左衛門。 日本の被差別社会の鍵を握った弾左衛門。その弾左衛門は13代が続いて、明治で廃絶した。
いったい弾左衛門とは何なのか。 (ちょうり)の歴史。の生活。 皮革の取扱い。犯罪者や失業者との関係。車善七との確執。
13代目弾直樹の冒険。明治政府による決断。
そこには、大都市江戸がつくりだした権益社会の実像と、日本の被差別社会の実像とが、鮮やかに重なっている。
弾左衛門については、徳川・明治・昭和を通して、誤報と曲解と恣意的な解釈がとびかってきた。その全貌を初めて起承転結をつけてあきらかにしたのが塩見であった。おかげで、われわれは浅草弾左衛門の歴史というものをほぼ教えられることになったのだが、しかし実際には弾左衛門は長らく差別問題の闇に葬られてきた人物なのである。
たとえば近代日本のしょっぱなのことでいえば、最後の弾左衛門が死んだ直後の明治25年(1892)、「朝野新聞」に次のような記事が出た。「関東での無慮一万戸。これを統轄したるものを弾左衛門といふ。弾左衛門は関東の中央政府ともいふべきものにて、今当時の実際に就て聞くところ一つとして奇警ならざるはなし」。
いまでは差別用語として禁じられているを多数統轄していたのが弾左衛門だという説明だが、これだけではまだ何者かはさっぱりわからない。わからないだけではなくて、強い規定をしすぎている。「関東の中央政府ともいふべきもの」とはどういう意味なのか、わからない。まして、そのリーダー弾左衛門がいつ、どのように“制度”になったかは、もっとわからない。塩見があきらかにした背景を、ごく大づかみにはなるけれど、ぼくなりに覗いておく。
弾左衛門の名が公式に歴史に登場するのは、家康の江戸入城前後のことだった。天正8年(1590)である。このとき大手門の先に矢野弾左衛門という者が住んでいて、弾左衛門という職掌と人名をもっていたと、大道寺友山が『落穂集』に書きのこしている。
しかし実際には、太田道灌が江戸氏の館を改築して江戸城にしたときすでに、矢野弾左衛門はいたらしい。太田道灌が浅草寺に通じる細い一本道の首根っこに「」()を置いて街道警備をさせたのが始まりで、その周辺には処刑場と牢屋があった。