醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だり   1380号   白井一道

2020-04-13 10:51:20 | 随筆・小説


 徒然草第 206段 徳大寺故大臣殿


原文
 徳大寺故大臣殿(とくだいじのこおほいとどの)、検非違使の別当(べつたう)の時、中門にて使庁(しちやう)の評定(ひやうぢやう)行はれける程に、官人(くわんにん)章兼(あきかね)が牛放れて、庁の内へ入りて、大理の座の浜床(はまゆか)の上に登りて、にれうちかみて臥(ふ)したりけり。重き怪異(けい)なりとて、牛を陰陽師(おんやうじ)の許へ遣(つかは)すべきよし、各々申しけるを、父の相国聞き給ひて、「牛に分別なし。足あれば、いづくへか登らざらん。尫弱(おうじやく)の官人、たまたま出仕の微牛(びぎう)を取らるべきやうなし」とて、牛をば主に返して、臥したりける畳をば換へられにけり。あへて凶事(きようじ)なかりけるとなん。
「怪しみを見て怪しまざる時は、怪しみかへりて破る」と言へり。

現代語訳 
 徳大寺の右大臣が検非違使庁の長官であった時に徳大寺家の中門の廊の間で検非違使庁の事務の評決がおこなわれていた時に下級役人の牛車の牛が車から放れて庁内に入り込み、長官の座る浜床の上に登り反芻しては口を動かし横になった。重大な奇異な事だと牛を陰陽師(おんやうじ)のもとに連れて行き、占わせるべき旨を使庁の役人たちが検非違使庁の長官に告げたところ、父の長官は事情をお聞きになり、「牛には分別と言うものはない。足があれば、どことなり登ることがあろう。薄給の下級役人がたまたま仕事に出て来た時に使った痩せた牛を取り上げる理由はなかろう」と言い、牛を持ち主に返し、牛が横たわった畳を取り換えられた。敢て凶事にしなかったという。
 「怪しいものを見ても怪しむことがなければ、怪しいものではなくなる」と言われた。

松岡正剛 千夜千冊より
 紹介 『浅草弾左衛門』 塩見鮮一郎著
家康が認めた浅草弾左衛門。 日本の被差別社会の鍵を握った弾左衛門。その弾左衛門は13代が続いて、明治で廃絶した。
いったい弾左衛門とは何なのか。 (ちょうり)の歴史。の生活。 皮革の取扱い。犯罪者や失業者との関係。車善七との確執。
13代目弾直樹の冒険。明治政府による決断。
そこには、大都市江戸がつくりだした権益社会の実像と、日本の被差別社会の実像とが、鮮やかに重なっている。
弾左衛門については、徳川・明治・昭和を通して、誤報と曲解と恣意的な解釈がとびかってきた。その全貌を初めて起承転結をつけてあきらかにしたのが塩見であった。おかげで、われわれは浅草弾左衛門の歴史というものをほぼ教えられることになったのだが、しかし実際には弾左衛門は長らく差別問題の闇に葬られてきた人物なのである。
たとえば近代日本のしょっぱなのことでいえば、最後の弾左衛門が死んだ直後の明治25年(1892)、「朝野新聞」に次のような記事が出た。「関東での無慮一万戸。これを統轄したるものを弾左衛門といふ。弾左衛門は関東の中央政府ともいふべきものにて、今当時の実際に就て聞くところ一つとして奇警ならざるはなし」。
いまでは差別用語として禁じられているを多数統轄していたのが弾左衛門だという説明だが、これだけではまだ何者かはさっぱりわからない。わからないだけではなくて、強い規定をしすぎている。「関東の中央政府ともいふべきもの」とはどういう意味なのか、わからない。まして、そのリーダー弾左衛門がいつ、どのように“制度”になったかは、もっとわからない。塩見があきらかにした背景を、ごく大づかみにはなるけれど、ぼくなりに覗いておく。
弾左衛門の名が公式に歴史に登場するのは、家康の江戸入城前後のことだった。天正8年(1590)である。このとき大手門の先に矢野弾左衛門という者が住んでいて、弾左衛門という職掌と人名をもっていたと、大道寺友山が『落穂集』に書きのこしている。
 しかし実際には、太田道灌が江戸氏の館を改築して江戸城にしたときすでに、矢野弾左衛門はいたらしい。太田道灌が浅草寺に通じる細い一本道の首根っこに「」()を置いて街道警備をさせたのが始まりで、その周辺には処刑場と牢屋があった。

醸楽庵だり   1379号   白井一道

2020-04-13 10:51:20 | 随筆・小説



 徒然草第 205段 比叡山に



原文
 比叡山(ひえのやま)に、大師勧請(だいしくわんじやう)の起請(きしやう)といふ事は、慈恵僧正(じゑそうじやう)書き始め給ひけるなり。起請文(きしやうもん)といふ事、法曹(はうさう)にはその沙汰なし。古の聖代、すべて、起請文につきて行はるゝ政(まつりごと)はなきを、近代、この事流布したるなり。
 また、法令(はうりやう)には、水火(すゐくわ)に穢れを立てず。入物〈いれもの〉には穢れあるべし。

現代語訳 
 比叡山延暦寺に伝教大師最澄の霊威を請い迎え、神仏に誓約を起し、その照鑑〈しょうかん〉を請い、もし、その誓約を破るならば罰を受ける覚悟をしたという事は、慈恵僧正(じゑそうじやう)が書きはじめられたことである。起請文(きしやうもん)という事は、律令格式を講究した家筋では取り扱わない。昔の聖天子が治められたご治世では、すべて起請文(きしやうもん)に基づいて行われた治世はなく、最近になって流布したことである。
 また公の規定になっている法律や政令では、水と火には穢れはなく、容器に穢れがあるといわれているはずだ。

仏教思想と穢れとの関係   杉田暉道

インドの「マヌ法典」に記されている穢れの思想をみると,出産,性交,排泄,月経,死などの生命の再生産のために,欠くことの出来ない 重要な生の営みを,穢れのみなもとと考えた. そして身体の部位については,へそから下の部位が,へそから上の部位にくらべてより穢れていると考えた. わが国においては,穢れの思想が古くから存在 したことは「古事記」などから明らかである。さらに殺生禁断の詔勅が天武4年(676年)に出された。平安朝の後半期になると,戦争や疫病がはげしくなり,人心の不安が一層広まったので, 仏教は現世は穢土であると説き、往生して浄土へ行くためには,念仏を行わねばならないと強調した。 さらに「地獄草紙」という絵巻物が出版されたために,地獄の様子が更に理解され易くなり,死後の恐怖感を中心にした仏教思想が一挙に民衆の間に広まった。また朝廷は「天下触穢」の布告を出し,穢れを消去する為に,占い師を使って種々のタブーを出した。かくして,凡そ穢れたことに遭遇したときは,人の死亡では30日間,出産は7日間,家畜死は5日間,家畜のお産は3日間とした。 つぎにわれわれの日常生活における穢れの実態について検討した。これについては,衛生習慣と関係あるものを,1、空間との関係,2、身体との関係に分けて検討した。1の空間との関係については,日本人は外から帰宅すると,玄関で靴または下駄をぬいで部屋に入る。さらに,神社,寺などでは「土足厳禁」の札をよく見かける。また葬式に参列した時には, 塩を身体にかけて清める。2の身体との関係については,食事の前には手を洗い,箸を用いて食事をする。2の身体との関係についてみると,日本人は食事の前には,手を洗い,食事をする時には箸を用いる。また,バス,タクシーの運転手などは,白い手袋をはめている。代議士は選挙の際に白い手袋をして演説をする。白い手袋は清潔を示しているのである。また身体についてみると,下半身は汚いとされ,したがってこの下着の洗濯は他のものとは別にしてより丁寧に洗濯する。 さらに家の中では,トイレは不浄であると考えられているので,トイレ専用のスリッパがあり, タオルもトイレ専用のものが用いられる。このような行動は,最近は外国人の影響を受けて大分変わってきている。 (ホテルなどにおいては西洋の家のようにバスルームの中にトイレが設置されている) 以上述べたように,現代の衛生習慣と穢れの思想との関係について,例をあげて述べたが,これらを要約すると,内・外=上・下=清潔・不潔= 浄・不浄の思想が存在することがわかる。 最後に「マヌ法典」の穢れと古代日本の清浄・ 不浄の思想とを比較すると,明白な類似を見出すことができる.すなわち,「マヌ法典」では,脂肪, 血液,頭垢,大小便,鼻汁,耳垢,痰,涙,眼脂、 汗を穢れとしたが,「古事記」においては,汚染 されている物体および液体を見たり,触れたりすることが不浄であると考えたのである。
  
 穢れの思想が社会を規律した時代が日本の前近代であった。  白井一道