醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1390号   白井一道

2020-04-24 06:37:33 | 随筆・小説



   
 徒然草第216段 最明寺入道



原文
 最明寺入道(さいみやうじのにふどう)、鶴岡の社参の次(ついで)に、足利左馬入道(あしかがのにふだう)の許へ、先づ使を遣(つかは)して、立ち入られたりけるに、あるじまうけられたりける様(やう)、一献(いつこん)に打ち鮑(あはび)、二献〈にこん〉に海老、三献にかいもちひにて止みぬ。その座には、亭主夫婦、隆辨僧正(りやうべんそうじやう)、主方(あるじがた)の人にて座せられけり。さて、「年毎に給はる足利の染物、心もとなく候ふ」と申されければ、「用意し候ふ」とて、色々の染物三十、前にて、女房どもに小袖に調(てう)ぜさせて、後に遣(つかは)されけり。
その時見たる人の、近くまで侍りしが、語り侍りしなり。

現代語訳 
 最明寺入道(さいみやうじのにふどう)が鶴岡八幡宮にお参りしたついでに足利左馬入道(あしかがのにふだう)のもとに、まず使いをやり、立ち寄ったところ、主がおもてなしをなさった様子は一献にのしアワビ、二献に海老、三献は蕎麦掻であった。その席には亭主夫婦と隆辨僧正(りやうべんそうじやう)、主方(あるじがた)の人がおられた。さて、「年ごとに給わる足利の染物が待ち遠しいものだ」とおっしゃられたので、「用意してございます」と言って、色々の染物三十を前にして、女房どもに小袖を仕立てさせて後に送り届けさせた。
その時見かけた人が最近になって話してくれたことである。

  一献の酒の文化とは  白井一道
 私たちは今や市民会館になっている旧社長宅に集まり、酔いの楽しみを求めて、唎酒に集中していた。その時である参加者の一人が発言した。今、我々は唎酒に集中しているため、静かにしているけれど、向こうの部屋では、夫婦そろって『断酒の会』をしていますよ。静かに一人、一人がつぶやくように話し合っていますよ。とても暗い雰囲気ですよ。我々の静かさとは全然違いますよ。奥さんは泪を流し、夫が酒を飲み始めると人が変わり、私を怒鳴り散らした日々があったというような話をポツリポツリと話していますよと、言った。
 酔いの楽しみを求めて静かにお酒を味わっている者たちの会と家族が潰されていくようなお酒の哀しみの断酒の会が同時に部屋は違うのが行うのは悪くないかということで曜日を変えてはどうかということになり、実施する週を変え、曜日を変えたことがある。
 酒は百薬の長と言われる一方でお酒は人間の心と体を壊す働きもする。そのような二面性のある飲み物である。一献の酒が一夜のお伽になるためには、飲酒文化が成熟する必要があった。飲酒文化が文化として成熟するためには、禁酒の思想なしにはあり得ない。特にイスラム教徒が啓典の民として受け入れたユダヤ教徒とキリスト教徒は同じ一神教を信ずる民であった。ムハンマドがメッカのカーバ神殿に入場し、偶像を破壊し、神は唯一だと主張したとき、神から授かった戒律の一つが禁酒であった。神との契約の書『旧約聖書』をイスラム教徒は聖典の一つとして受け入れている。ユダヤ教徒やキリスト教徒にもイスラム教徒と同じような禁酒の思想が共有されていた。西洋世界にあって、飲酒は神との約束を破る行為である。秘蹟としての聖餐(ディナー)はパンとワインのみである。こうしてワインがキリスト教に受け入れられていった。同様に仏教にあっても「不許葷酒入山門」(葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず)と言われている。お酒は、心を静め清めるための修行のじゃまになるので、 寺の中に持ってはいることができない。このような禁酒の思想があってこそ、飲酒を慎む心情が少しずつ培われ、酔いを楽しむ文化がつくられていった。
 鎌倉時代以降になると寺院で積極的にお酒が造られるようになり、火入れの技術などは経験的に獲得された技法のようだ。いわゆる低温殺菌法である。
西洋にあっても中世にペストの大流行を契機にドイツにおいてビール醸造が積極的に僧院で行われるようになっていった。ビールを飲み、生水を飲んでいない人々はペストにかからなかったからである。ビールが飲み水の代わりになった。それが安全な飲み物になった。日本にあってもヨーロッパにあってもお酒やワイン、ビールが民衆の飲み物として定着していく中で酔いの楽しみという飲酒文化培われていった