徒然草第218段 狐は人に食ひつくものなり
原文
狐は人に食ひつくものなり。堀川殿にて、舎人が寝たる足を狐に食はる。仁和寺にて、夜、本寺の前を通る下法師に、狐三つ飛びかゝりて食ひつきければ、刀を抜きてこれを防ぐ間、狐二疋を突く。一つは突き殺しぬ。二つは逃げぬ。法師は、数多所食はれながら、事故なかりけり。
現代語訳
狐は人に食いつくものだ。堀川殿では、寝ていた舎人が足を食われた。仁和寺では、夜、本寺の前を通った下法師に三匹の狐がとびかかり食いついたので、刀を抜いてこれを防いでいる間に狐二疋を突いた。一疋は突き殺した。二疋は逃げた。法師は数多食われながら事故にはならなかった。
狐と稲作と稲荷信仰 白井一道
「天照大御神(アマテラスオオミカミ)は命じました。 豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(トヨアシハラノチアキナガイホアキノミズホノクニ=葦原の長く長く幾千年も水田に稲穂のなる国=日本)は、わたしの子供である正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ命)が統治すべきだと言い、天から降りることになりました」と『日本書紀』にあるそうだ。稲作を日本に伝えたのは渡来人ではないかと考えられている。大陸から押し出され逃げて日本にたどり着いた人々は野草の中に野生の原始的な稲穂を見つけ出し、品種改良をしてジャポニカ種と言われる米の栽培に成功し、これが徐々に普及していったのではないかと私は想像している。そうして人々の中の有力者の一族に秦氏がいた。
日本に稲作が普及した時代が弥生時代である。この稲作を可能にしたものが新石器という道具類であり、新しい土器、水が漏れることのない土器、弥生式土器であった。新石器と弥生式土器、ジャポニカ種の稲作が同時に普及した時代はまた、新しい信仰が生れた。稲作の普及に伴って鼠が繁殖した。鼠が繁殖すると同時に鼠を食べる狐や狼が繁殖していった。稲作に精を出す人々にとって狐や狼は益獣として受け入れられていった。柳田國男は、稲の生育周期とキツネの出没周期の合致から、キツネを神聖視したという民間信仰が独自に芽生えたと言う説を述べている。
8万社もあるという日本の神社のなかで、もっとも多い神社の一つが狐を祀るお稲荷さんだ。稲荷神社の総本宮は京都市伏見区にある伏見稲荷大社である。この伏見稲荷大社は秦氏の氏神であった。秦氏と稲作、稲荷信仰は一体のものであった。
お稲荷さんはその字が示すように、稲の豊穣を守る神様だ。稲のような食物を司る神を古くは「御饌津神(みけつがみ)」と言った。この神名に「三狐神(みけつがみ)」の字をあてたので、いつしか狐が稲荷神の使いになったという。
じつはこうした伝承はいくつもあって、狐は穀物を食べる野ネズミを襲うので、狐が稲の守り神になった。
縄文時代に生きた狩猟民たちは山の狼(おおかみ)を神の使いとしていたが、稲作の定着とともに狼は山に追いやられ、代わりに里にすむ狐が稲の神の使いとなった。稲作文化の定着が日本列島に住む人々に稲作と狐を祀る稲荷信仰を深めて行った。その結果、それまでの古くからあったオオカミ信仰は日本各地に点在していたが、稲作の発達によりオオカミ信仰はキツネの稲荷信仰(いなりしんこう)に取って代わられていった。
オオカミ信仰といえば、いまは埼玉県秩父郡の三峰神社(みつみねじんじゃ)や東京奥多摩の大嶽神社(おおだけじんじゃ)などが名高い。祭神は大口之真神(おおぐちのまがみ)、たんに真神ということもある。大嶽神社のオオカミ像は非常にシンプルで、ペット犬のような愛らしさがある。
オオカミ信仰をいわば理論化したのは、山奥で厳しい修行をする修験者(しゅげんじゃ)とされている。彼らの説によると、三峰神社にイザナギ、イザナミノ尊(みこと)を祀(まつ)ったとき白いオオカミが神の使いとして現れたという。また日本武尊(やまとたけるのみこと)が山火事にあったとき、オオカミが救ったという。
日本のオオカミは明治になって絶滅した。イノシシやニホンジカなどが繁殖し畑や森林が荒らされるのは、オオカミが絶滅したためとする説がある。
人間に幸せをもたらしてくれる動物を神様として昔の人々は祀った。その一つが稲荷信仰のようだ。