醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1382号   白井一道

2020-04-16 11:37:49 | 随筆・小説


   
 徒然草第208段 経文などの紐を結ふに



原文
 経文などの紐を結ふに、上下(かみしも)よりたすきに交(ちが)へて、二筋(ふたすぢ)の中よりわなの頭(かしら)を横様に引き出(いだ)す事は、常の事なり。さやうにしたるをば、華厳院弘舜僧正(けごんゐんのこうしゆんそうじやう)、解きて直させけり。「これは、この比様(ごろやう)の事なり。いとにくし。うるはしくは、たゞ、くるくると巻きて、上(かみ)より下(しも)へ、わなの先を挟(さしはさ)むべし」と申されけり。
古き人にて、かやうの事知れる人になん侍りける。

現代語訳 
 お経の巻物などの表紙の紐を結ぶときに、上からと下からとぶっちがえに紐を交差させ、その交差している二本の紐を間から、紐の先端を横に引き出すのは通じうすることである。そのようにしてあったものを華厳院弘舜僧正(けごんゐんのこうしゆんそうじやう)は解いて直させた。「これはこの頃するようになったことである。とても醜い。正しくは終わりに巻いた紐の束の上から下へ向かって、紐の先端をさしはさむのがよい」と申された。
 華厳院弘舜僧正(けごんゐんのこうしゆんそうじやう)は昔の人であられてこのような事をご存じの方であられた。

 お経の翻訳    白井一道
  現代日本社会に広く流布しているお経の一つが『般若心経』である。先日、街中を歩いていると声をかけられた。見返ると初老の男が『般若心経』についての話をそこのお寺で午後一時からあります。「いかがですか」と呼び込みを受けた。南銀座通りである。飲食店、パチンコ屋、カラオケスタジオ、飲み屋が軒を連ねている。その通りで看板を掲げて『般若心経』講演の呼び込みがある。
 『般若心経』は現代社会に生きている。現代に生きる人間にとって『般若心経』には心に訴えるものがあるのだと私は感じた。『般若心経』には仏教の教えが簡潔に述べられているのであろう。現代社会に生きるものにとって命を守る教えのようなものが『般若心経』にはあるのだ。私は『般若心経』を今に伝えた人のことを思い出した。
 『般若心経』をサンスクリット語から漢訳したのは玄奘と鳩摩羅什の二人である。私たちが普段に聞くものは玄奘訳のものが多いようだ。玄奘は7世紀前半に生きた中国唐時代の人である。日本にあっては、法隆寺が創建され、金堂の釈迦三尊像が造立された時代である。そのころ中国にあっては隋王朝が滅び、唐王朝が成立する。玄奘は中原の都洛陽で生まれ、長安で仏教を学んでいた。玄奘は漢訳された経典での勉強に不満を覚え、直接原典に当たって学びたいという思いに駆られて、密出国してインドへと旅立っている。黄河中流に流れ込む支流渭水流域に位置する長安から徒歩でインドに旅立つ。河西回廊を経て高昌(こうしょう)に至る。高昌王である麴文泰(きくぶんたい)は、熱心な仏教徒であったので玄奘を金銭と人員の両面で援助した。玄奘は西域の商人らに混じって天山南路の途中から峠を越えて天山北路へと渡るルートを辿って中央アジアの旅を続け、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに至った。この旅が『西遊記』という物語になった。
 仏教の神髄を極めたいという玄奘の情熱には若さがある。万巻の経典を馬の背に乗せ、砂漠ではラクダの背に経典を乗せ、玄奘は歩いて長安に帰り着いている。十数年の期間を経て、この大事業をやり遂げている。それからインドから運んできた仏教の経典をサンスクリット語から中国語に翻訳している。そのうちの一つが現代日本社会で流布している『般若心経』である。この経典は1400年も前の中国語で表現されているにも関わらずに現代日本語で『般若心経』を読み、読解している。なぜこのような事が可能なのかと言うと、漢字が表意文字であるからである。漢文は中国語を表現したものであるが、その漢文を日本語として読むことが可能なのだ。漢字は表意文字である事によって日本語としても朝鮮語としても、ベトナム語としても、チベット語としても読解が可能なのだ。
 今から1400年も昔の人である玄奘がサンスクリット語から中国語に翻訳した『般若心経』が現代に生きる日本人の心に届くものがある。なんと凄いことなのだろうと私は思う。
 日本を代表する画家の一人、平山郁夫氏の代表的な絵画の一つが玄奘に刺激され描かれたシルクロードを描いたものである。