醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1387号   白井一道

2020-04-21 10:13:55 | 随筆・小説


   
 徒然草第213段 御前の火炉に火を置く時は



原文
 御前の火炉(くわろ)に火を置く時は、火箸して挟む事なし。土器(かはらけ)より直ちに移すべし。されば、転び落ちぬやうに心得て、炭を積むべきなり。
 八幡(やはた)の御幸(ごかう)に、供奉(ぐぶ)の人、浄衣(じやうえ)を着て、手にて炭をさゝれければ、或有職(あるいうしよく)の人、「白き物を着たる日は、火箸を用ゐる、苦しからず」と申されけり。

現代語訳 
 天皇の火炉(くわろ)に火を入れる時は火箸で挟んで入れてはならない。土器の器から直接移さなければならない。さうして土器から火が転び落ちないように心得、炭を積むべきである。
 八幡(やはた)の御幸(ごかう)に付き従った人は浄衣(じやうえ)を着て、手で炭をついだのを見て、或る有職(あるいうしよく)の人が「白い衣服を着ている日は火箸を用いることは差し支えない」とおっしゃられた。

 火をめぐる文化と民俗信仰
 佛教大学教授八木 透
現代のように、ボタンひとつで点火や消火が可能になり、機械やコンピューターがすべてを制御するという時代に、私たちは火をどのように認識し、火といかに向き合ってゆくべきなのだろうか。
火をめぐる文化について考えるとき、まず確認しておかなければならないことは、すべての動物の中で、火を自在に操ることができるのは人類だけであるという事実である。人間以外の動物たちは火を扱うことができない。火を操れるか否かが人間と動物を区別する重要な基準であり、同時に「文化」と「自然」を分けるメルクマールでもある。人間がここまで高度な文化を築き上げることができたのは、すべて火を自在に操れたからであるといっても過言ではない。たとえば、火によってさまざまな食物を調理する、あるいは熱を加えるということが可能となる。また人間は火を扱えたおかげで、寒い季節に暖をとることが可能となった。さらに、火が人間に画期的な転換をもたらした事実として、金属を産むという火の特性である。鉄をはじめ、あらゆる金属を産むためには、火が不可欠である。さらに陶磁器を作るためにも火は欠かせない。火は自然の中に存在する土や金属を、人間が必要とする自在な状態や形状に変化させてくれる。この技術は、野生動物たちには決して真似することはできない。
火は貴重な恵みを私たちに与えてくれる、必要不可欠な存在ではあるが、一つ間違えると、くらしのすべてのものを焼き滅ぼしてしまう、恐ろしい力を持った魔物でもある。火は恵みと脅威という、相反する特性を併せ持った存在として、これまでの歴史の中で、人間の前にたびたび難題を突きつけてきた。特に前近代における“大火”と称せられた大規模な火災では、人間が火の脅威を目の当たりし、尊い命や文化が無残に失われた。たとえば近世の京都では、宝永・享保・天明という3度の大火が発生しており、中でも天明8(1788)年におきた大火では、京都の市中のほとんどの家屋が焼き尽くされたと伝えられている。歴史の中で火は何度となく人類に襲いかかり、甚大な被害をもたらした。このような火の脅威に対して、人々はいかなる神に祈り、またどのような対処を試みてきたのだろうか。
 昔の人々は、現在と比べて火の恵みや驚異をより深く認識していたであろう。火が私たちの日々のくらしの中で必要不可欠であったがゆえに、人々は火そのものを信仰の対象として祀った。火をめぐる民俗信仰の中で、何よりも切実な願いが「火伏せ」であったことは想像に難くない。京都の愛宕や遠州の秋庭に代表されるような、全国に伝わる火伏せの神は、このような人々の切実な祈りの依り所として、いつの時代も篤い信仰を集めてきた。
 火が一旦巨大化すると、もう人間が操れる範疇を超え、火はまさに魔物と化す。そうした火は止まることなく燃え広がり、あらゆるものを焼き滅ぼしてしまう。そうなれば、火はもう人知を超越した存在であり、尋常の方法では制御することが不可能となる。しかし人並みはずれた修行を積み、特別な霊力を身につけた宗教者だけは、魔物と化した火をコントロールすることができると信じられていた。その宗教者とは、まさに山岳で修行を積む修験者たちであった。このことが、火をめぐる信仰の多くが修験道と深い関わりを有する所以である。