醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1385号   白井一道

2020-04-19 11:30:13 | 随筆・小説



   
 徒然草第211段 万の事は頼むべからず

原文
 万の事は頼むべからず。愚かなる人は、深く物を頼む故に、恨み、怒る事あり。勢ひありとて、頼むべからず。こはき者先づ滅ぶ。財(たから)多しとて、頼むべからず。時の間に失ひ易し。才ありとて、頼むべからず。孔子も時に遇(あ)はず。徳ありとて、頼むべからず。顔回(がんくわい)も不幸なりき。君(きみ)の寵(ちやう)をも頼むべからず。誅を受くる事速かなり。奴(やつこ)従へりとて、頼むべからず。背き走る事あり。人の志をも頼むべからず。必ず変ず。約をも頼むべからず。信ある事少し。
 身をも人をも頼まざれば、是〈ぜ〉なる時は喜び、非なる時は恨みず。左右(さう)広ければ、障らず、前後遠ければ、塞(ふさ)がらず。狭き時は拉(ひし)げ砕(くだ)く。心を用ゐる事少しきにして厳しき時は、物に逆ひ、争ひて破る。緩(ゆる)くして柔かなる時は、一毛も損せず。
 人は天地の霊なり。天地は限る所なし。人の性(しやう)、何ぞ異ならん。寛大にして極まらざる時は、喜怒これに障らずして、物のために煩はず。

現代語訳 
 どのような事であっても人頼みにしてはならない。愚かな人はひたすら人頼みするから恨み、怒ることがある。権勢があったとしても人頼みにしてはならない。強力を誇るものは先ず滅ぶ。財産があるからと言って頼りにはならない。瞬く間に失われやすい。才覚があるからと言って頼りにはならない。孔子でさえ時勢に乗じて世に用いられるとはなかった。人徳があったとしても頼りにはならない。顔回(がんくわい)でさえも不幸であった。主君の寵愛も当てにならない。主君の怒りに合えばたちまち罪を負って殺されることがある。奴僕が従っているからといって頼りにはならない。背むいて逃げることがある。人の厚意も当てにならない。必ずと言っていいほど気持ちは変わる。約束したことも頼みに足るものではない。信義ある事は少ない。
 我が身のことも他人の事をも人頼みすることがなければ、上手くいったときは嬉しく、駄目であっても人を恨むことはない。左右が広ければ妨げがない。前後が広ければ詰まってしまうことがない。狭い時はつぶれ砕けてしまう。心配りが足りなく厳格にすると何かと逆らいが起き、争い傷つく。余裕を持ち柔軟に対応すれば体の一本の毛も傷つけることはない。
 人間は万物の霊長である。天地は無限である。人間の本性も、また天地の無限性となんら変わる所はない。寛大であって極まることがないなら、たとえ喜びや怒りが起きたとしてもこの広大な本性の邪魔になることはない。


 自律し、自立するということ  白井一道
 男に媚を売る女がいる。媚は売っても体は売らないという女がいる。体は売っても心は売らないという女がいる。体は多少汚れたとしても心は清浄だと主張する女がいる。
 勿論、立派に自律し、自立している女性がいる一方で女に媚を売る男がいる。更に男が男に媚を売ることがある。財務省の高級官僚と云われた男たちは「森友学園」問題において男が男に媚を売った事件だったのではないかと私は見ている。「忖度する」とは、媚を売ることであった。媚を売った結末は悲惨なものになった。媚を売ることを潔しとしなかった財務省下級役人は自律し、自立して生きようとすることを妨害され、財務省高級役人に絶望し、自死する道を強制された。死に至る病とは絶望なのだ。絶望した人間は生きることができないのだ。「絶望とは自己の喪失である」ともキュルケゴールはその著『死に至る病』の中で述べている。
 財務省高級官僚と云われている役人たちは自律し、自立して生きている人々なのだろうか。「君(きみ)の寵(ちやう)をも頼むべからず。誅を受くる事速かなり。奴(やつこ)従へりとて、頼むべからず。背き走る事あり。」と『徒然草』の中で兼好法師は述べている。
 800年前の日本社会においても自律し、自立して生きることがいかに困難なことであったのかを思い知る。自分は自分である。これをアイデンティティーと言う。社会の中にあって自分が自分でいるということが難しいということのようだ。だから大半の人々は自分を胡麻化して生きているのかもしれない。自分を胡麻化し続けることができなくなった時に死に至るのかもしれない。