醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1386号   白井一道

2020-04-20 10:37:44 | 随筆・小説



    徒然草第213段
 

原文
  秋の月は、限りなくめでたきものなり。いつとても月はかくこそあれとて、思ひ分かざらん人は、無下に心うかるべき事なり。

現代語訳 
 秋の月は、限りなく美しいものである。どのような時であっても月とはこのように美しいものだと思い、そのように思えない人は実に残念なことである。

 
秋の月を詠んだ芭蕉  白井一道

月ぞしるべこなたへ入せ旅の宿 寛文4年21歳

芭蕉はまだ郷里伊賀上野で藤堂藩、藩主の嫡子藤堂良忠に仕えていた。藤堂良忠は俳諧に親しむ。俳号を蝉吟(せんぎん)と言った。蝉吟の詠んだ発句を京都の北村季吟の下に届け、添削をしていただいていた。芭蕉は蝉吟を通して俳諧に親しみ、学んでいった。伊賀から京への使いの道が発句を学ぶ道であった。その成果の一つがこの句である。旅の宿に泊まることなど、芭蕉にはできなかった。しかし旅籠からの呼び込みの経験があった。そんな旅の宿に泊まれたらどんなにいいだろうと願ったに違いない。そんな気持ちがこの句には滲み出ている。
夜ル竊(ひそか)ニ虫は月下の栗を穿(うが)ツ 延宝8年 37歳
夜密かに虫は月下の栗を食べている。静かな世界に月光が輝いている。この月の明りの静かさが実に見事に表現されている。

馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり 貞享元年41歳
『野ざらし紀行』に載せてある句である。夜通し馬に乗って旅をしていた。夜明けごろ、うつらうつらと夢見心地で馬に乗っていたのだろうか。ふと気付くと月は遠く小さくなっている。有明の月はほの白く山にかかっている。ここは小夜の中山である。山里の民家の家からは湯を沸す白い煙がたちあがっているのではないか。このような旅を芭蕉はしていた。その旅は俳諧を求める旅でもあり、俳諧を広める旅でもあった。俳諧の発句を詠むことが旅であり、旅することが俳諧を詠むことでもあった。

雲をりをり人をやすめる月見かな貞享2年42歳
「終夜の陰晴、心尽しなりければ」と前詞がある。夜明かして月見を芭蕉は楽しんでいた。一晩中、月には雲がかかっては、消え、また雲がかかる。『真蹟拾遺』には「西行のうたの心をふまえて」とある。「なかなかに時々雲のかかるこそ月をもてなすかぎりなりけり」『山家集』。時々、月に雲がかかるからこそ月見の楽しみがあると言うものではないかと気が付いた。芭蕉は西行の歌に刺激され、俳諧の発句を詠んだ。

名月や池をめぐりて夜もすがら 貞享3年43歳
江戸深川芭蕉庵にて月見の会を催した際に詠まれたものであろう。一晩中実際は芭蕉庵で酒を飲み、月見を楽しみ、俳諧をしていたのであろう。池を巡って月見を楽しんだことを芭蕉は思い出し、この句を詠んだのであろう。名月と心り中の池とを取り合わせて詠んだ句である。

月はやし梢は雨を持ながら 貞享4年 44歳
「ひるよりあめしきりにふりて、月見るべくもあらず。ふもとに、根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此所におはしけるといふを聞て、尋入てふしぬ。すこぶる人をして深省を 發せしむと吟じけむ、しばらく清浄の心をうるにゝたり。 あかつきの そら、いさゝかはれけるを、和尚起し驚シ侍れば、人々起出ぬ。月のひかり、雨の音、たヾあはれなるけしきのみむねにみちて、 いふべきことの葉もなし。はるばると月みにきたるかひなきこそ、ほゐなきわざなれ。かの何がしの女すら、郭公の歌得よまでかへりわづらひしも、我ためにはよき荷憺の人ならむかし。」『鹿島紀行』
雨が上がってきた。枝の先には雨粒が溜まっている。灰色の雲が勢いよく流れて行く。大空に広がる雲と月。身近な所の枝の先。表現ができている。

寺に寝てまこと顔なる月見哉 貞享4年 44歳
芭蕉は鹿島根本寺に世話になり、休ませてもらった。雨に降られて芭蕉は月見ができていない。月見ができない無念さのようなものを芭蕉は表現した。