醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1389号   白井一道

2020-04-23 10:17:21 | 随筆・小説


   
 徒然草第215段 平宣時朝臣、老の後



原文
 平宣時朝臣(たひらののぶときあつそん)、老の後、昔語に、「最明寺入道(さいみやうじのにふどう)、或宵の間に呼ばるゝ事ありしに、『やがて』と申しながら、直垂(ひたたれ)のなくてとかくせしほどに、また、使来りて、『直垂などの候はぬにや。夜なれば、異様(ことやう)なりとも、疾(と)く』とありしかば、萎(な)えたる直垂(ひたたれ)、うちうちのまゝにて罷(まか)りたりしに、銚子(てうし)に土器取り添へて持て出でて、『この酒を独りたうべんがさうざうしければ、申しつるなり。肴こそなけれ、人は静まりぬらん、さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ』とありしかば、紙燭(しそく)さして、隈々を求めし程に、台所の棚に、小土器(こがはらけ)に味噌の少し附きたるを見出でて、『これぞ求め得て候ふ』と申ししかば、『事足りなん』とて、心よく数献(すこん)に及びて、興に入られ侍りき。その世には、かくこそ侍りしか」と申されき。

現代語訳 
 平宣時朝臣(たひらののぶときあつそん)は老いての後、昔語りに「最明寺入道(さいみやうじのにふどう)が或る宵の間に呼ばれたことがあった際、『やがて参ります』と言いながら、直垂(ひたたれ)が見つからなくてぐずぐずしていると、また使いが来て『直垂などかまわない。夜の事なので格好はどうでもいいから、早く来てくれ』というので、よれよれの直垂を付け、家にいる格好をして罷ったところ、銚子に土器の皿を添えて持ち出して『この酒を一人で飲むのが寂しくてたまらないので、言っておきたい。酒の肴はないんだが、家人は寝てしまっているだろうから、適当なものがあるか、家探ししてくれ』とおっしゃられたので、紙燭(しそく)を灯し、隅々まで探したところ、台所の棚の小皿に味噌が少し付いているのを見つけ、『これを見つけましたよ』と申したところ、『これで満足だ』と快く数杯をあけ、愉快になられました。あの頃、このようなことがあったなぁ」とおっしゃられた。

 酔いの楽しみを詠んだ芭蕉の句   白井一道

 二日にもぬかりはせじな花の春 貞享5年45歳
 「宵のとし、空の名残おしまむと、酒のみ夜ふかして、元日寝わすれたれば」と前詞がある。芭蕉は故郷、伊賀上野に帰っていた。芭蕉は江戸に出て、三度目の里帰りである。この時、芭蕉は実兄から母が大切に保存してくれていた芭蕉の臍の緒を見せてもらった。母への思いがつのり涙が頬をつたった。その感動を詠んだ句が「旧里や臍の緒に泣くとしの暮」である。忘年会だと言って旧友の俳諧仲間が集まり、盃を交わした。したたかに酔いを楽しみ、寝過ごしてしまい、初日の出を迎えることができず、正月の餅を食いはぐってしまった。『三冊子』に次のようにある。「この句は、元日ひるまでいねてもちくひはずしたりと前書あり。此句の時、師の曰、等類気遣ひなき趣向を得たり。此手爾葉は、二日には、といふを、にも、とは仕えたる也。には、といひてはあまり平目に当りて聞なくいやしと也」。二日もまたこのような不始末はしたくないという意味ではないかと芭蕉の弟子の土芳は述べている。

 御命講や油のような酒五升 元禄5年 49歳
 御命講(おめいこ)は、日蓮の命日(弘安5年1282年11月21日・陰暦10月13日)であるから何れにしろ10月13日の御会式のこと。日蓮は、池上本門寺で亡くなっている。「油のような酒五升」という形容が酒好きの気持ちを良く言い表している。この静かさに酒の旨さが詰まっている。御下がりの直会が見えている。芭蕉は酒好きの男であると同時にお酒に義理堅く、だらしない所のない人であった。

 鰹売りいかなる人を酔はすらん 貞享4年44歳
 「目には青葉山ほととぎす初鰹」と芭蕉と同時代を生きた山口素堂が詠んでいる。江戸庶民にとって初鰹は高値の魚であった。そのような魚である鰹も昔、公家と言われる人々は食べることがなかった。『徒然草』119段に書いてあった通りに鎌倉時代から室町時代にかけて関東地方に住む人々から食べ始め、江戸元禄時代になるともともと庶民しか食べなかった肴が江戸庶民には手の届かない肴になっていた。この憧れの魚、鰹を肴に酒を酌み交わす人々はどのような人なのであろう。鰹売りの声を聞き、想像する。初鰹を酒の肴にして楽しむ人々が町人の中に生まれて来ていた。