徒然草第214段 想夫恋といふ楽は
原文
想夫恋(さうふれん)といふ楽(がく)は、女、男を恋ふる故の名にはあらず、本(もと)は相府蓮(さうふれん)、文字(もんじ)の通(かよ)へるなり。晋(しん)の王倹(わうけん)、大臣〈だいじん〉として、家に蓮(はちす)を植ゑて愛せし時の楽(がく)なり。これより、大臣を蓮府(れんぷ)といふ。
廻忽(くわいこつ)も廻鶻(くわいこつ)なり。廻鶻国(くわいこつこく)とて、夷(えびす)のこはき国あり。その夷(えびす)、漢に伏して後に、来りて、己れが国の楽を奏せしなり。
現代語訳
想夫恋(さうふれん)という雅楽の曲は女が男を恋うという文字が意味するようなことではなく、もともとは相府蓮(さうふれん)という文字が意味することである。中国の晋王朝の王倹(わうけん)は大臣として家に蓮の花を植え愛した時に楽しんだ雅楽の曲である。この時から大臣の邸を蓮府(れんぷ)と言うようになった。
廻忽(くわいこつ)という国は廻鶻(くわいこつ)だ。廻鶻国(くわいこつこく)と言い、野蛮人の恐ろしい国がある。その野蛮人の国は漢帝国に征服されて後に都に来て廻鶻国(くわいこつこく)の楽曲を演奏したものである。
注釈
想夫恋(そうぶれん) とは雅楽の曲名。相府蓮、想夫憐とも表記する。 唐楽に属する平調(ひょうぢょう)の曲で、現在は管絃によって奏される。本来の表記は相府蓮で、「丞相府の蓮」(じょうしょうふのはす/大臣の官邸の蓮)をあらわす。晋の大臣(丞相)である王倹の官邸の蓮を歌った歌が原曲であったが、「相府」と「想夫」の音が通じることから後に、男性を慕う女性の恋情を歌う曲とされた。
廻忽(くわいこつ)とは
初めウイグルは『魏書』や『北史』などで袁紇や韋紇と記されたが、『旧唐書』や『新唐書』からは迴紇,回紇と記されるようになった。そして貞元4年(788年)もしくは、元和4年(809年)に迴紇、回紇から迴鶻、回鶻に改称してからは、専ら迴鶻、回鶻の語を用いるようになる。
もともとは複数部族の連合体であり、彼等自身が残した碑文によれば、早期には九姓鉄勒(トクズ・オグズ)と呼んでいたが、回紇(ウイグル)部の首長氏族であるヤグラカル氏がこの部族集団の指導者となったため、九姓鉄勒(トクズ・オグズ)全体が回鶻(ウイグル)と呼ばれるようになった。
晋(しん、265年 - 420年)は、中国の王朝の一つ。司馬炎が魏の最後の元帝から禅譲を受けて建国した。280年に呉を滅ぼして三国時代を終焉させる。通常は、匈奴(前趙)に華北を奪われ一旦滅亡し、南遷した317年以前を西晋、以後を東晋と呼び分けているが、西晋、東晋とも単に、晋、晋朝を称していた。東晋時代の華北は五胡十六国時代とも称される。首都は洛陽、西晋末期に長安に遷った後、南遷後の首都は建康。南朝宋により滅ぼされた。
東アジア世界の音楽
古代中国では三分損益法・十二律・五声(五音音階)という音楽理論と、さまざまな打楽器と琴、横笛とオカリナの仲間からなる儒教の儀式用の合奏が確立した。そこに西域からさまざまな楽器(琵琶など)や音楽が伝わり、6~8世紀には代表的なものが整理されて宮廷で公式に演奏された。これは七部伎(後に拡大され、九部伎や十部伎となる)と呼ばれ、奈良・平安時代の日本や朝鮮半島に伝えられた。その後はそれぞれ独自の発展を遂げ、中国では劇音楽が発達し、民間の音楽の中心的な存在となり、現在では京劇という名で伝わっている。日本では大陸から伝わった雅楽や声明(仏教音楽)の影響の下、能楽や歌舞伎などの新しいジャンルが生まれた。朝鮮半島では仮面劇が発達し、パンソリ(唱劇ともいう。一種の歌劇)が生まれている。なお、14世紀ころには胡弓や三弦が中央アジアから中国に伝わり、そこから朝鮮や日本にも伝わった。日本では三弦は三味線のもととなった。
こうした歴史から、楽器は共通のものが多い。また、五音音階をどの国でも好んで使っているが、含まれている音は若干違いがある。朝鮮の音楽には三拍子系統のものが見られる。
ウィキペディアより