この記事のタイトル「国際化の時代だからこそ英語教育への過大な期待はやめませよう」をご覧になった方の中にはこう思われた向きも少なくないのではないでしょうか。
このBLOG記事では「英語力に関しては”How to”より”What to”の方が重要だ」「そのためには、英米を始めとする外国に対する理解よりもなによりも、日本の歴史の理解と国語の運用能力が肝要である」、あるいは、タイトルの「英語教育」を「英会話教育」に読み替えた上で「お洒落な英会話の習得にお金と時間を使う暇があったら、英文法のがっちりした知識と欧米の教養人が読んでいるような書籍が正確に読める読解力、そして、大人が大人に見せて恥ずかしくない文章が書けるライティングスキルの養成に貴方の資源を投入したらいかがですか」というような主張が展開されるんだろうな、と。
・英語をどう話すかより何を話すかが重要
・ならば、薄っぺらな会話力よりも確りした文法力と語彙力が有用であり
・よって、英語より国語が肝要で
・究極的には、日本人としてのアイデンティティーの確立が枢要だ
幸いというべきか。これらは、最早、世間の大方の理解を得られる常識だと思います。渡部昇一さん、鳥飼玖美子さん、藤原正彦さん始め多くの方々の粘り強い世間への働きかけの結果、2006年の現在では、英語教育業界で働く者のコミュニティーでもそのカウンターパートナーである顧客企業人事研修担当者のコミュニティーでも、そして、教育に熱心で英語教育に造詣の深い多くの父母保護者の間でもこれは常識として通用するだろうということです。
しかし、常識を認識することと遵守することは別もの。例えば、「嘘をつくのは善くない」ということは間違いなく常識でしょうが、ライブドア事件や防衛施設庁の官製談合事件を見るにつけそれを実行し続けるのは難しい。同様に、前述した英語教育を巡る常識もそれを会社や社会が実際に形にしていくためには幾多の課題を克服しなければならない。英語教育のビジネスの現場に前後20年近くいるものとして私はそう思っています。
◆現在の日本人に求められている能力
この記事「国際化の時代だからこそ英語教育への過大な期待はやめませよう」で私が言いたいことは、上で触れた<常識>を踏まえた上で、かつ、この<常識>に沿って学校でも企業でも英語教育の改変が本格化しようとしている2006年の現在、一つの問題提起をすることです。すなわち、
現在、英語教育に世間が期待している内容の中には、英語教育の守備範囲を遥かに超えたものが混入していませんか。つまり、英語の教育研修の場ではなく、国語や歴史の教科科目として、あるいは、家庭や職場や地域で獲得されるべきでもあり/獲得される方が効率的でもある内容が(それが英語を使うからという非本質的な理由だけのために)英語教育に安易にallocateされている傾向はありませんか、という問題提起です。
そして、「英語教育の守備範囲を遥かに超えた内容」とは摩訶不思議なことでも鬼面人を驚かすものではない。おそらく誰もが既に気づいておられるものです。蓋し、それは前述の常識の説明でも触れた、
日本人としてのプライドとアイデンティティーの確立であり:親兄弟でも夫婦でも彼氏/彼女でもない他人と持続可能で節度ある(できれば愉快で気持ちの良い)関係を取り結ぶための礼儀作法であり:問題を発見するロジカル&シンボリックな分析力であり:問題の問題性を組織内で共有化するコミュニケーション能力であり:または、価値観や世界観を異にする他者とefficientlyに協働しfairに競争するための哲学的と法学的の思考能力、等々を私はイメージしています。
国際化の潮流が加速度的に強まっている現在、これらの能力開発が重要でないわけがない。そして、その重要性の認識は「常識」などという言葉の射程を超えており、それは教育に携わる者すべての(=教育サーヴィスの供給側と需要側:研修者・被研修者・スポンサー、つまり、この社会の全構成員の!)共通了解事項でさえある私は信じます。
しかし、これらの能力開発を具体的にどう実施するのか;どのセクターがどの部分を担当し、個人の生涯のどの時期にどの研修をallocateするのか:あるいは、研修を担当する組織のあり方はどのようなものになるのか等々は平成18年2月の現在も五里霧中であることもまた現実ではないでしょうか。けれども、「英語教育に対する過大なクレーム(=要求)は日本の社会全体にとって不毛であり不幸である」ということは間違いないと思います。
◆日本人の能力に対する不安と不満
現在の日本人に要求されている能力は何か? 開発されるべき日本人の能力とは何か? この主題に対する私の関心は、日本人の能力に対する私の不満と不安を基盤にしています。また、この不満と不安は私の大学院留学カウンセラーと企業人材開発コンサルタントとしての20年の実体験から来ている。
私が直接カウンセリングを担当させていただいた日本を代表する企業や中央官庁からの留学派遣候補生は、同世代の日本人の中では間違いなく優秀であるはずの経歴の方々でした。しかし、正直に言って彼らの少なからずは、大学院留学研修後でも、ある種の能力の面では「世界に出しては恥ずかしい」人々でした。
これは印象的批判ではありません。なぜならば、その批判は、価値判断をともなうdecision makingにおいて自分や自分の属する組織の主張の変遷をロジカルに他者に説明できないという、かなりクリアカットな特徴を持つ「恥ずかしさ」であり、それは、多少の個体差、または英語やフランス語ができるようになることでは治癒されないものだからです。では、何を改善するのか? 何ができれば恥ずかしくないというのか? そして、どう改善するのか?
到達すべき目標は、日本人らしい価値観と文化を保有しつつ、自己の立場を、事実や根拠をあげながらロジカルに説明できる能力の開発である。もう少し能力開発に引きつけて言い換えれば、それは自分や自分の属する組織の主張の変化を明晰な価値体系の中にビジュアルに再配置する、または価値体系自体の変化を平明に説明できる理解力と表現力の開発なのだと思います。蓋し、実際に開発されるべきスキルは、コミュニケーション能力、分析力、判断力、交渉力、教養(日本人らしく、かつ、世界の人々から尊敬を受けるような教養)に細分化できるかもしれません。
要は、ニューヨークで認められたとかハーバード大学をクンマ・スム・ラウデ(=学年最優秀)で卒業したとかで認められるのではなく、自分や自分の作品の固有名詞で世界に通用する日本人が一人でも多く育っていくことが日本にとって重要と考えるのです。思うに、黒澤明は海外で認められて初めて「日本の黒澤」になったけれど、スピルバーグはアメリカで認められることで同時に「世界のスピルバーグ」になったのでしょう。ならば、固有名詞で世界で勝負できるような人物や作品の安定供給は「恥ずかしくない日本人」が増えない限り100年河清を待つことになると危惧しています。
尚、現在の日本を取り巻く国際化の進行が与える、日本社会と日本の人的資源開発への影響については下記の拙稿をご参照いただければ嬉しいです。
・ライブドア事件が象徴するもの☆企業内研修制度の揺らぎと格差社会
◆日本人の能力開発制度の再構築前夜の風景
もう随分前のことですが、新聞に「我が意を得たり」という投書が掲載されていました。『「書く力」、高校で養成必須』(平成15年1月25日・朝日新聞・東京本社版)。出版社で通信教育指導員をされている方の投書です(以下引用開始)。
大学で入試問題として提示される小論文テーマは多岐にわたる。それぞれの学部の専門に応じて、情報、環境、国際社会、福祉、科学技術、教育、医療、政治経済、人間関係、自己存在など、現代社会が抱える問題のすべてが、入試小論文のテーマになっていると言っても過言ではあるまい。その指導を、文章を書くのは国語の分野とばかりに国語教育に含めてしまうのは無謀である。さらに、その文章教育は小学校の作文以降は、一部の熱心な先生方の努力にゆだねられているのが現状と言えよう。(以上、引用終了)
大学入試の小論文指導と社会人の英語教育企画では全く畑違いでしょうが、私はこの投書子が書かれたこととに激しく同意します。そうなのです。ビジネス活動の中で処理されるテーマは多様でありそれを遂行するために要求されるビジネススキルも千差万別なのに、英語の運用能力開発の指導は<英語教育>の分野とばかりに、総ての英語を使った業務能力の開発を<英語教育>に含めてしまうのは無謀である。そう思うのです。
私の専門である企業内の英語研修に引きつけて具体的に説明しましょう。私は、①どのような業務が、②どのくらいの精度と制限時間でできるための英語力を、③納期と予算だけでなく、④通勤中の自習を含め被研修者が週当たりに捻出可能な学習時間と現在の英語力が曖昧な英語研修は無意味であると、顧客企業や同僚の営業担当者に周知徹底しています(尚、③の「納期」は研修の終了日ではなく成果達成の期限です)。それらを一つでも欠く研修はギャンブルであり、往々にしてそれらは壮大でゴージャスな国際的な雰囲気の体験研修にしかならないと断言できます。
まして、企業には、英会話は全然不要だが、技術専門文献を理解する英文読解の精度と速度は英語のネーティブスピーカー並みでなければ企業に貢献できないエンジニアの方もいれば:英会話は日常会話程度でとりあえずかまわないが、「ビシットして教養を感じさせる英文原稿のドラフト」を少なくとも相棒のプルフリーディング担当のイギリス人同僚には理解できる程度の英文で毎日A4サイズ25枚は書かなければ組織に寄与できない営業マネージャー職の方もおられる。これらの差異が英語研修に関する研修成果の「達成比率」を変えるだけでなく「研修成果の達成」のイメージ自体を決定的に左右することは自明でしょう。
再度記しますが、実際、成果達成の確率が最も予測しやすいTOEIC対策講座でさえ、①~④の情報を欠いたままカリキュラムを設計すれば成果は論理的には<神頼み>なのです;ならば、英会話研修やライティング指導のような、能力測定値の誤差が大きく、かつ、その成果の概念も被研修者の業務の特殊性によって大きく左右される研修分野では、①~④の情報、就中、①②の情報が研修のコース設計の前に明らかでないならば、その研修は「ドブに金と時間を捨てるようなもの」なのです。
しかし、ボーダレスな競争に曝されている現下の日本企業と日本人にはそんなゴージャスだが効果のない研修(=厳密に言えば、効果があるかどうかは<神頼み>な研修)に時間と予算を投入する余裕があるはずはないでしょう。
TOEIC対策の英語研修でさえ成果を確実に達成しようとすれば(①~④の情報を媒介に)、人的資源マネージメント総体の情報とリンクせざるをえない。このことは何を示しているかと言えば、それは、企業内の英語研修自体が、実は、現状でも既に<英語の教育研修>の領域を遥かに超えているということです。ならば、英語研修を通して開発するよりも効率的な開発手段が、個々のスキルごとに存在する可能性を誰も否定できないでしょう。そして、この一連の経緯は初等中等教育や大学・大学院での英語教育についても言えることだと思います。
畢竟、ボーダレスな競争の時代に突入した日本社会では、それが国際化の激化している時代だからこそ英語教育への過大な期待はやめて、幼児から退職者に至るまでの日本人全員をカバーする真に効率的な人材育成の制度を確立すべきである。その制度は国際化に拮抗できる世界に出しても「恥ずかしくない日本人」、かつ、日本人らしい日本人として世界で尊敬される日本人の揺り籠になるのではないか。
私はその「制度の確立」は、到底、国まかせでは無理で民間主導で行われなければ成果は望めないと思っていますが、いずれにせよ制度確立はこの社会にとって焦眉の急であることは確かだと考えます。広い意味の教育産業に従事してきた者の一人として、ドキドキワクワクしながら私はそう思っています。
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