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憲法より選挙ですか☆民主党-外国人の代表投票権廃止に根強い慎重意見-

2011年11月30日 11時37分27秒 | 雑記帳


◆外国人党員・サポーターの代表選投票権廃止、結論出ず 民主党
民主党は29日、党規約・代表選挙規則検討委員会(座長・細川律夫前厚生労働相)を国会内で開いた。執行部が目指す在日外国人の党員・サポーターによる代表選投票権の廃止について議論したが、異論が相次ぎ、結論を持ち越した。

会合では、「首相を選ぶ選挙に外国人が投票するのはどうか」と廃止を求める意見が出た一方、在日本大韓民国民団(民団)が同党議員の選挙ポスター張りなどで協力してきたことに配慮し、投票権存続を求める声もあった。

党規約は、在日外国人が党員・サポーターになれると明記し、党代表選規則は党員・サポーターを代表選の「有権者」と定めている。「事実上の首相選びに外国人が参加するのは憲法違反だ」との批判を受け、執行部は代表選規則を改正して投票権を廃止する方針で、引き続き協議する。

(産経新聞・2011年11月29日) 






この記事に接して先ず浮かんだ感想というか会話は・・・。

あいつはいいやつだよ。
いつも酒おごってくれるからね、

つまみの注文やらなにやらも至れり尽くせり。
痒い所に手が届くつーの、孫の手というか、
まごころというか、心がこもってるのよ。

で、何かお返ししてるかって?
いや、別に、そんなこと求めてくるやつと違うよ、あいつは。
本当にいいやつ。

だから、まー、(自分が雇われ店長やってる)コンビニでね、
あいつが万引きするのくらいは認めていますよ。

それが何か?
当然でしょう。

それが仁義ちゃう、それが人の道でしょう。


いえ、はい、そうですよね。
はい、それ当然ですよね。
それ常識、鴨。

б(≧◇≦)ノ ・・・民主党のね!



(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。


賢しらな憲法論や法哲学の議論ではなく、
この記事を最初に目にしたときに、まじ、
このような「対話」の場面と台詞が目に浮かびました。

蓋し、民主党の多くの国会議員の本音はこんな所ちゃうか、と。
と、そう感じた。


(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。





而して、外国人党員を巡る憲法規範の内容はおおよそ次の通りでしょう
(その論拠については下記拙稿で些か詳しく説明しています)。

すなわち、

(α)外国人にも政治活動の自由は存在する、(β)政党が外国人をその党員・サポーターにすること自体は違憲ではない、(γ)政党の代表選挙においては、(外国人党員の投票結果が代表選定の参考意見程度の扱いを受けるのでもない限り)外国人党員にその政党の代表投票権を与えることは違憲である。(δ)但し、(γ)の違憲性は、原則、憲法訴訟において、その違憲性を理由として、損害賠償・差し止め・無効確認等々を請求できるタイプの違憲性ではなく、政治的な批判の根拠になるにすぎないタイプの違憲性と考えるべきものである、と。   


ちなみに、(γ)の「外国人党員の投票結果が代表選定の参考意見程度の扱いを受ける」とは、例えば、(a)党員・サポーターの票は党所属国会議員の票の10%程度にしかカウントされないとか、要は、党員・サポーターの総投票数が30万票であっても、民主党所属国会議員投票総数の約400票に対して、それは「30票」としてしかカウントされないとか。(b)日本国籍を保有する党員票100票に対して1票程度にしかカウントされない。要は、外国人党員の票がが鳩山由紀夫氏に1000票、菅直人氏に800票投じられた場合、党員票の集計では各々10票と8票としてカウントされるとかの場合です。

尚、下記旧稿の「二番煎じ」になりますけれどもここでも一言。憲法15条1項「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」を根拠にして、外国人地方選挙権にせよ、民主党における外国人党員・サポーターの代表投票権が憲法違反とは言えません。

蓋し、①誰も「地方選挙権や外国人党員・サポーターの代表投票権」を憲法上の権利と主張しているわけではないのですから。ならば、②「地方選挙権や党員・サポーターの代表投票権」が国民に固有の権利であるということから、権利ではないが政策的・恩恵的、あるいは、<営業的>な観点から外国人にそれらの権能を付与することが違憲とは直ちには言えないということ。

畢竟、③憲法の規定、就中、憲法の人権規範は「保障→中立→禁止」の種差や段階差を帯びるのであり、議員の選挙権や政党の代表の選挙権を国民に保障する規定が、その反対解釈として(要は、「外国人の権利ではない」というその反対解釈を超えて、「外国人にそれらの権能を認めることは許されない」と解して、)自動的に外国人に対するそれらの権能の付与を禁止しているとは論理的には言えない。ならば、④(まして、外国人といえども未成年者といえども、政治的自由一般が原則禁止されることはあり得ない以上、)外国人の政治的権利の範囲の憲法論的確定は、憲法15条1項の字面を何時間睨んでもその解答が得られるものではなく、憲法の全体系の中で(具体的には、「国民主権」と「民主主義」、「基本的人権」なるものと天皇制を中核とする「日本国の自己同一性」の意味内容から)確定されるしかないのですから。

・政党政治における国民主権原理と外国人の政治活動の自由の交錯
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59878521.html

・「外国人地方選挙権は違憲」☆長尾一紘新説の検討
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59183285.html

・外国人地方選挙権を巡る憲法基礎論覚書(壱)~(九)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58930300.html





重要なことは、(δ)にいう「違憲性」が憲法訴訟の請求の原因(≒法律要件事実)には、原則、ならないからといって、それは単なる「道義的な不具合」や、左翼・リベラルのプロ市民が「憲法違反だぁー!」とか騒いだり、裁判所の玄関前で「不当判決だぁー!」と下手な字で落書きした模造紙を掲げる類の主観的なものではないということです。くどいですが、詳細は上記拙稿および下記拙稿をご参照いただきたいのですけれども、

・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444652.html

要は、(イ)憲法といわず民法と言わず、ある法規範はそれを包摂する<法体系>の一斑として機能するものであり(つまり、個々の「将兵=法規範」は、(「小隊<中隊<大隊<連隊<・・<師団<軍団<方面軍」といった組織的な体系の中でのみ)各々の「将兵=法規範」として機能するということ)、

加之、(ロ)例えば、行政法の中の組織法や、民事法の任意規定、あるいは、多くの法律に記されている目的や趣旨の規定・解釈規定・定義規定、更には、憲法典の中の(例えば、現行の日本国憲法9条の非武装規定や25条の社会権のプログラム規定の如く)「準則」ではなく「原理」を定めたにすぎない規定等々、土台、少なくとも単体では裁判規範として用いることは難しい/馴染まないけれども、(イ)で述べたように、ある法体系の一部として、道徳規範などではなく、正に、法規範として機能する規範は枚挙に暇がないのです。

畢竟、(ハ)権力の則としての憲法は、本質的には/憲法の事物の本性から言えば、その多くの規範が裁判規範ではなく/百歩譲って、裁判規範であると同時に「道義的原理」とさえ言えるのです(例えば、自衛隊が憲法違反だからといって、政府のバックアップもなしに裁判所が自衛隊に差し押さえを掛けるなどは、最早、星新一のSFの世界の御伽噺でしょう。実際、(「Worcester v. Georgia, 31 U.S. (6 Pet.) 515 (1832)」に対するジョージア州と当初のジャクソン大統領の如く、)違憲立法審査権に200余年の歴史のあるアメリカでさえ、連邦最高裁の判決を連邦大統領や連邦議会、あるいは、連邦の立法府と執行府の支持を受けた州政府が無視すると覚悟を決めた場合、裁判所には最早その判決に実効性を持たせることはできないのですから)。

(二)この(ハ)の経緯は、違憲立法審査権を(訴訟法の法体系上は、機関訴訟や民衆訴訟に代表される客観的訴訟等々の極めて例外的な場合を除き、憲法裁判所よろしく一般的に法規の合憲性・違憲性を審査するのではなく、裁判所に持ち込まれたある具体的で個別の法的紛争を解決するためだけに、かつ、そのために必要な範囲に限って裁判所が法規の合憲性・違憲性を審査する、アメリカや日本の)付随的司法審査制度においては尚更、「憲法の多くの規範は裁判規範ではなく/百歩譲って、裁判規範であると同時に「道義的原理」である」と言えると思います。  





私は何を言いたいのか。蓋し、「憲法の多くの規範は裁判規範ではない/裁判規範であると同時に「道義的原理」である」としても、しかし、その「道義的原理=政治の方針の宣言」である/でもあるという憲法規範の性質から、例えば、現行憲法の解釈は恣意的でもよく、プロ市民が「不当判決!」と騒ぐのも自由であり、他方、政府や民主党がどのような解釈に基づいて法案を通過させたとしてもそれを法的に咎める手立てはないというわけではないということです。

畢竟、(甲)憲法の規範意味は、()憲法典、および、憲法の慣習・憲法の定義・憲法の事物の本性、並びに、その時々の国民の法的確信の所在によって編み上げられる「テクスト=意味体系」としての憲法体系に対して、()憲法の有権解釈の蓄積を踏まえた憲法研究者と実務家コミュニティー内部で既に成立している/恒常的に再構築されている「解釈の技術」の眼鏡を通してのみ見いだされるもの。

而して、(乙)上記の憲法解釈から是認されない、政府や民主党の行動は、それが憲法訴訟の対象に入らないとしても、「憲法による正当化」の契機を失うという意味で、政治的のみならず「法的=政治的」に制裁を受けることになる。


蓋し、(社会思想史の博物館の陳列物にすぎない「バークの保守主義」などではなく、現役の)現在の保守主義的法理論の源流の一つとも観念しうる、英国分析法学の始祖、J.オースティンの「法と道徳の峻別論-「為政者-権力者」に課せられている実定道徳的な責任としての政治責任に基づく権力の制御」のアイデアに基づき私はこう考えています。






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